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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 基町と周辺 軍都の象徴

 広島市は、原爆の惨禍を経た「平和都市」であると同時に、旧陸軍の一大拠点であり続けた歴史を持つ。特に基町(中区)と周辺は、明治時代に陸軍第5師団が編成されて以降、広島城を中心に軍の部隊や施設が集積した。繁華街の八丁堀や紙屋町と道路一つ隔てて、全く雰囲気を異にしていた。基町だけでなく、市内各所に軍施設や民間の軍需工場が点在した。写真を通して、被爆までの「軍都」広島を振り返る。(山下美波)

将校目指し訓練の日々 兵員も多数犠牲

 菊の紋章が輝く建物の門前で、日本とナチス・ドイツの国旗が交わり、若者が行進している。1938年ごろの広島陸軍幼年学校とみられる写真。「(青少年組織の)ヒトラー・ユーゲントだよ。日独防共協定の締結を受けて日本を交流訪問した時でしょう」。広島大名誉教授の高崎禎夫さん(89)=広島市佐伯区=に見せると即答した。

 学校は広島城(中区)の北東側にあった。現在、修復された正門の門柱が残る。全国から成績優秀な13、14歳の少年が集まり、寮生活を送りながら3年間教育を受けた。香川県出身の高崎さんは44年春、将校を目指し入校した。

 国語や数学に加え「術科」の剣道と教練、軍人らしい立ち方や歩き方を学んだ。演習場では「2年秋からの実弾演習を心待ちに修練を積んだ」。

 しかし45年6月、教育総監部の指示で全生徒が郊外へ疎開。2カ月後、爆心地から1・3キロの幼年学校は一部の建物を残して跡形もなく焼かれた。「われわれはすでに逃げていて助かった。広島に残った人たちに申し訳ない思い」と高崎さんは語る。

 「広島原爆戦災誌」は、広島城周辺で兵員約1万人が死傷したと推定する。歩兵第一補充隊(中国第104部隊)に所属していた浅原晃さん(93)=安芸高田市=は、広島城近くの兵舎から演習先の東練兵場(現東区)へ向かった直後に被爆した。高宮町原爆被爆者友の会が編んだ手記集に「共に整然と行進中であった戦友の体は溶けて、見る姿すらなかった(中略)広島城の堀には爆風により頭から沈み、黒焦の両足が数え切れないほど見受けた」と寄せた。初年兵150人の中で、生き残ったのは浅原さん1人だったという。

 基町には戦後、県庁や市民病院ができた一方で、戦災者らのバラック建ての家が密集。その後高層アパートが整備され、緑豊かな一帯となった。現在、サッカースタジアムの建設計画も進む。「軍都」「被爆」と「復興」。どの面影も、年々薄くなっていく。

軍関連施設 各地に 「お国のため」10代も勤労

 川を船が行き交う水運の街に1889年、宇品港(現広島港、南区)が完成。その5年後に日清戦争が始まり、広島駅との間に軍用鉄道の宇品線が敷かれると、広島は中国大陸への兵員輸送拠点となる。戦時における明治天皇直属の最高司令部「大本営」が広島城内に一時的に移され、臨時帝国議会も招集された。

 日露戦争を経て、軍の施設は市内各地に広がった。戦地の食糧を賄った「広島陸軍糧秣支廠(りょうまつししょう)」、軍服を供給した「広島陸軍被服支廠」や銃などの補修を担った「広島陸軍兵器補給廠」といった拠点が次々とできた。多くの市民の勤務先や取引先となった。

 太平洋戦争が厳しさを増し、若い働き手が戦場に送られると10代の少年少女が作業に動員された。三菱重工業広島機械製作所、三菱重工業広島造船所、東洋工業…。民間の軍需工場にも、現在でいう中高生たちが駆り出された。

 旧制修道中3年だった岡島元信さん(89)=佐伯区=は、兵器支廠で薬きょうに火薬を詰める危険な作業をした。教室で学ぶ機会を奪われながら「お国のため」にと働いた。

 原爆は、軍の施設も市民も無差別に焼いた。爆心地から2・8キロの兵器支廠は被爆後から臨時救護所になり、負傷者が押し寄せた。戦後に取り壊される際、同級生の元動員学徒たちで外壁のれんがをはめ込んだ碑を制作。元動員学徒で日本画家の故平山郁夫氏が「歴史に生きる」と揮毫(きごう)し、母校修道中・高の校庭に設置された。

 「国や天皇陛下のために生きる以外に喜びがない時代に二度としてはならない」と平山さんの同級生、石本芳郎さん(90)=中区。軍国主義を生きた少年が、今の若い世代に伝えたい教訓だ。

(2020年4月27日朝刊掲載)

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