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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 国泰寺町 夢抱いた学びや

 広島市中心部のデパートや商店、金融機関が集積するエリアからわずかに南へ下った国泰寺町(現中区)とその周辺には、市役所や広島赤十字病院があり、地元有名校が門を構えていた。75年前、多くの少年少女の命が絶たれた。赤十字病院は、瀕死(ひんし)の負傷者であふれかえった。原爆で奪われた街の姿を、学校や同窓会が保管するアルバムなどを手掛かりにひもとく。(桑島美帆)

戦争の影 授業わずか 動員中 多数が犠牲に

 必死の形相でたるをくぐり抜ける男子生徒や、リレーの選手たち。県立広島第一中(広島一中、現国泰寺高)の1942年3月の卒業アルバムに、運動会の躍動感あふれる様子が収められている。

 「素晴らしい先生や友だちに恵まれた。一中に通ったことは今でも誇りです」。44年入学の福間駿吉さん(88)=西区=が懐かしそうに語った。しかし、授業の記憶はわずかだ。戦時下の労働力不足を補うため8月に国が「学徒勤労令」を公布。中学生も軍需工場や畑での作業をさらに強いられるようになった。

 45年のあの日、1年生約300人のほぼ全員が雑魚場町(現国泰寺町)の校内やその近くで息絶えた。

 当時、戦争遂行に欠かせない施設を空襲時の延焼から守るとして、広島市役所付近の民家が立ち退きの対象になっていた。奇数学級の生徒が家屋を取り壊す「建物疎開」の作業に駆り出され、偶数学級は校内で待機していた。いずれも、爆心地から1キロ圏だった。

 一中は教職員を含め計369人を失った。2年生の福間さんは、広島市の西にある廿日市市の工場に動員されていた。生き残りとして、戦後を通じて後輩らの無念を胸に刻んできた。「慰霊碑に佇(た)てば聞こえてくるんです 被爆学徒の校歌絶唱」。昨年7月末、母校の慰霊祭で自作の短歌をささげた。

 広島では各校の12~14歳の生徒らが建物疎開作業に動員され、原爆資料館などによると8200人以上が主に市中心部の6カ所で熱線を浴びた。約6300人が死亡したと推定されている。「雑魚場町」は、戦争動員がもたらした少年少女の犠牲を伝える代名詞の一つになった。

 一中の約250メートル北の下中町(現中町)にあった県立広島第一高等女学校(第一県女、現皆実高)も、校舎は壊滅。爆心地から約800メートル南西の小網町で建物疎開作業に出ていた1年生ら生徒281人が亡くなった。

 校舎跡に正門の門柱が残り、死没者を慰霊する「追憶之碑(ついおくのひ)」がたたずむ。2年生だった佐々木(旧姓三浦)和恵さん(89)=中区=は、近くを通ると必ず立ち寄る。「毎朝一緒に登校した下級生が犠牲になった」ことが心に重くのしかかっている。

 現在の国泰寺町かいわいから国道2号を挟み、旧広島大理学部1号館が残る。隣接地には高層マンションが並ぶ。れんが張りの被爆建物は老朽化が著しい。所有する広島市は一部保存へと腰を上げ、平和研究拠点として活用する計画を前に進め始めた。

 被爆前の基町と周辺、市内にあった軍用施設の写真約100枚を16日に、国泰寺地区と千田町付近の写真は30日にウェブサイト「ヒロシマの空白 街並み再現」で公開します。https://hiroshima75.web.app/

 広島市内の被爆前を捉えた写真を募集中です。ヒロシマ平和メディアセンター☎082(236)2801。

(2020年5月11日朝刊掲載)

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