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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 国の責任を問う <5> 被爆者健康手帳

91歳でやっと手に

「申請促す情報を」

 広島県大竹市に住む菅昌子さん(93)は75年前、壊滅した広島市内で「大切なあの人」を懸命に捜し歩いた。その記憶が、脳裏に焼き付いている。被爆者健康手帳が交付されたのは91歳だった2年前。「申請には被爆の『証人』が必要だから、と長い間諦めていました」

 呉市で生まれ育った菅さんは、地元の就職先で3歳年上の相田清明さんと出会った。背が高く、野球やギターが得意。ひそかに恋心を抱いた。相田さんが会社を辞めたため一度は疎遠になったが、1944年12月頃、「警察官になった」と思いがけず便りが届いた。

 「気が合いました」。戦争末期で、連れ立って出かけることもままならない。文通を始めて約3カ月後、プロポーズされた。ところが、相田さんの両親にあいさつを済ませた45年7月1日の夜、呉空襲で菅さんの自宅が全焼。現在の大竹市の姉宅に避難して以降、同じく被災した相田さんと再び連絡が取れなくなった。

婚約者捜し入市

 1カ月ほど後、知人を通して消息を知る。会いたい一心で8月5日、平田屋町(現広島市中区)の交番を訪ね、再会を喜んだ。広島駅の改札口での別れ際に「広島は川が多いから、今度はボートに乗せてあげるね」と言ってくれた。胸が高鳴った。翌朝に何が起こるのか、知るはずもなく―。

 原爆投下から6日後、相田さんの母親と一緒に広島市内に入った。爆心地から約680メートルの交番の焼け跡に、生焼けの足の指が3本ほど入った靴があった。相田さんの母親は「これが息子」と言い聞かせるように小さなつぼに入れた。2人で泣きながら呉に帰った。

 戦後、相田さんの家族との交流は途絶えた。菅さんは家庭を築き、2人の子どもに恵まれた。これまで被爆者健康手帳の交付申請書を手にしたこともあるが、子育てや仕事で精いっぱいのまま、年月は過ぎた。

 「今更…」と思っていた数年前、自宅を訪問してきた大竹市の職員に被爆体験を語ったことがきっかけで、手帳取得の支援を続ける広島県被団協(坪井直理事長)元相談担当の佐藤奈保子さん(73)を紹介された。

 手帳制度には、広島市や周辺の指定区域での直接被爆、2週間以内に爆心地から2キロ圏に立ち入った入市被爆、などの区分がある。菅さんは「入市被爆」に該当する。交付審査は、国から業務を受託した各都道府県または広島、長崎両市が行う。「2人以上の第三者の証明」が原則必要だが、高齢化が進み、申請者が証人をそろえることは難しい。市と県によると、当時の記録や資料から被爆状況の裏付けをしている。

対象知らぬ人も

 一定に柔軟な対応はされているが、なおも壁は高い。広島、長崎両県市合わせた昨年度の申請は計162件で、認定は43件どまり。既に取得した人の申請書類が審査の参考資料になるが、国の保存方針はなく、全国的に見れば一部で散逸が進む。

 「菅さんの場合、相田さんと母親の名前などを詳しく書いたため、県としても記録を探しやすかったはず」と佐藤さん。手帳があれば医療費の自己負担分が実質無料となり、諸手当の受給も可能になる。貧血に悩む菅さんにとって、新たな支えとなる一冊だ。

 佐藤さんによると「原爆投下後、広島に入った」「母と救護所へ行った」などの体験を持ちながら、自らが交付対象とは知らないケースがある。「そのような人の力になりたい。行政も、手帳申請を促す情報を全国で広めてほしい」

 あの日の記憶を胸に押し込め、さまざまな経緯から手帳取得はしてこなかったものの、人生の終盤になって思い立つ人たちがいる。昨年3月末現在、手帳を持つのは14万5844人。この数字の外側の「空白」に今もいる原爆体験者に行政は寄り添い、最善を尽くすべきだろう。(山下美波)

(2020年5月24日朝刊掲載)

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