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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 広島駅 「軍都」の玄関口

 広島市の玄関口、JR広島駅(広島市南区)は75年前も多くの人が行き交っていた。その北側に陸軍の演習場「東練兵場」が広がっており、太平洋戦争末期になると「本土決戦」に備えた「第二総軍司令部」が近くに設置されるなど、一帯は「軍都広島」の一翼を担うエリアでもあった。被爆と復興を経て今、再開発事業で街の姿は大きく変わり続けている。写真を通して、かつての街を思い起こしたい。(新山京子)

北側に練兵場 人馬「頼もしく」 原爆で負傷者多数避難

 軍人が馬にまたがり、障害物をさっそうと飛び越えていく。「頼もしく見えました」。山本定男さん(88)=東区=が尾長国民学校(現尾長小)の教室から眺めた光景だ。現在の広島駅北口から延びる一帯。東練兵場の広大な敷地だった。

 日清戦争が始まる4年前の1890年、綿畑の跡地に東練兵場はできた。西側の一角に騎兵第五連隊の兵舎が隣接しており、ほふく前進などの訓練が連日行われていたという。「軍国少年だった」山本さんにとって憧れだった。

 しかし太平洋戦争が厳しさを増すと、状況は急速に変化する。軍人たちが戦地に送られ、東練兵場は人けもまばらになったという。

 1945年8月6日。広島二中(現観音高、西区)の2年生で14歳だった山本さんは、同級生約250人と東練兵場にいた。軍用地も食糧不足でサツマイモ畑になり、その日は草取り作業の動員日。点呼の直後にごう音、熱風に襲われた。顔の左半分を焼かれ、同級生数人と裏手の山にある尾長天満宮へ必死に逃れた。

 高台から見ると広島駅は、もうもうと煙を上げていた。「駅近くの愛宕踏切辺りから民家に次々と火が燃え移るのを、ぼうぜんと見るしかありませんでした」

 その頃、大勢の負傷者が東練兵場に逃げ込んでいた。近くの第二総軍司令部で被爆したカナダ在住のサーロー節子さん(88)もその一人。「私のけがは軽かったので、布を水に浸しては水を求める人の口元に運びました。瀕死(ひんし)の人がチュー、と弱々しく吸った時の感触が手に残っています」

 爆心地から1・9キロの広島駅は内部を全焼。多くの乗客が駅舎やホームで被爆した。戦後、周囲の焼け跡に闇市とバラックがひしめいた。

 市中心部と駅を結ぶ猿猴橋の近くで理容店を営む秋信隆さん(71)は、復興に向けて懸命に生きる家族や地域住民に囲まれて育った。曽祖父の仙太郎さんが自宅兼店舗で被爆。東練兵場に避難し息絶えた。曽祖母と祖母、中国大陸から復員した父が店を再建した。

 数年前まで「昭和」が色濃かった地域だが、高層ビルや商業施設が並ぶエリアに変貌した。JR広島駅の駅ビル新築計画が進む。かつての街の面影も、復興期の雑踏のにおいも、感じ取ることは難しい。だからこそ秋信さんは「原爆でたくさんの人が命を落とし、生き残った人たちが懸命に立ち上がった歴史は変わらない」との思いを強める。

 山本さんは、尾長天満宮から見た惨状を、修学旅行生らに証言している。あの日、広島二中の1年生は爆心地から約500メートルに動員されて全滅した。下級生らへの鎮魂と、「二度と繰り返させない」との思いを込めて語り続ける。

(2020年6月1日朝刊掲載)

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