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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <1> 市民の手で

75年経て肉親記載へ

死没者名簿 制度周知を

 今月5日、広島市役所で原爆死没者名簿の記帳が始まった。書き加えられる名前は昨年8月6日以降に亡くなった人が大半だが、長年「空白」だった末に確認された人もいる。

 山口剛弘さんは75年前、2歳で命を奪われた。「時間がかかって申し訳ない、という思いでいっぱいです」。おいの益田崇教さん(54)=安佐南区=が昨年12月、名簿登載を市に申請した。益田さんの亡き母静江さんの弟だ。静江さんの家は、爆心地から770メートル。剛弘さんと両親、祖父母の家族5人が犠牲になった。

 幼い頃から益田さんは、よく母と一緒に平和記念公園(中区)を訪れて原爆慰霊碑に手を合わせた。「アイスキャンディーをねだられたのに、1人で食べてしまって…」と後悔の念を明かされた。趣味は、被爆前の市内の写真の収集。モノクロのカットを通して、原爆に奪われた母たちの日常に思いを寄せている。

犠牲者に入らず

 益田さんは、原爆慰霊碑に納められた原爆死没者名簿に5人全員の名前があると信じていた。しかし昨年、本紙連載を読んでから気になりだした。名簿は非公開だが、遺族は市に照会できる。すると、剛弘さんの名前がなかった。

 益田さんから連絡を受け、記者も市を取材すると、剛弘さんは原爆で亡くなった人たちの名前を積み上げる「原爆被爆者動態調査」からも漏れていることが分かった。昨年3月末時点で市が確認している1945年末までの犠牲者数「8万9025人」に入っていないことを意味する。

 何が理由として考えられるのか―。学校の名簿などに載りにくい就学前の子の被爆死は、行政による把握が確かに難しい。市と広島県が保管する被爆者健康手帳の申請書は、動態調査の情報源でもあるが、静江さんが交付申請をしたのは当時住んでいた山口県。国は85年、手帳を持つ生存被爆者に絞って家族の死没者調査をしたものの、静江さんは82年に亡くなっていた。

 原爆死没者名簿への登載を申請しながら、心の中で「ようやく姉弟で一緒になれるよ」と母に語りかけた益田さん。同時に、疑問も覚えた。剛弘さんたちの名前を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録しており、来館者も自由に検索できる。しかしその情報は、同じ公園内の原爆死没者名簿には反映されていなかった。国が持つ情報を、市のためにも生かせないものだろうか、と思った。

 児玉晃さん(85)=東広島市=も昨年12月、連載記事に背を押され、父千里さんの名前を原爆死没者名簿に登載申請した。「1人の名前の『空白』を埋めることの大切さを思いました。父の霊も浮かばれるでしょう」

 旧豊栄村(現東広島市)の医師だった千里さんは、建物疎開作業で広島市中心部に動員されていた村民を救護するため、原爆投下直後から連日市内へ入った。トラックで負傷者を連れ帰り医院に収容した。翌年から高熱に襲われて床に伏し、47年に47歳で亡くなった。「放射能の影響だと思えてなりません」

行動が重要な鍵

 45年末までの死者はもとより、被爆者健康手帳の交付が始まる57年より前に亡くなった人たちも、市が持つ資料からこぼれ落ちやすい。だからこそ、児玉さんのような市民の行動が「空白」を埋める重要な鍵となる。

 「原爆死没者名簿への登載確認をしたい」「母の名前が載っていないかもしれない」。読者から取材班への相談が相次いだ。遺族も高齢化が進む。国や他の自治体と連携して名簿の登載申請制度を周知し、動態調査への理解を求めることが急がれる。

 昨年8月5日までに原爆死没者名簿に載ったのは計31万9196人。剛弘さん、千里さんが新たに加わり、今年の平和記念式典で原爆慰霊碑に納められる。(水川恭輔、山下美波)

    ◇

 被爆から75年後もなお原爆被害の全容は解明されていない。取材を通して「ヒロシマの空白」を埋める上での課題が見えてきた。官民で取るべき道筋を探る。

(2020年6月16日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <2> 遺族捜し

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <3> 資料の活用

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <4> 問い直す

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <5> 被害実態の発信

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <6> 諦めない

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