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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <2> 遺族捜し

「まだ発見あるはず」

次世代継承 被爆者願う

 「推定7万人」とも説明される平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔に眠る遺骨のうち、814人は名前が分かっている。広島市は名簿ポスターを毎年作成して全国に配布するが、遺族への返還は最近10年間でわずか2例。本紙取材を通して、名簿にある「鍛治山はる(皆実町三丁目)」さんの遺骨が3例目となる可能性が高まった。

 市原爆被害対策部調査課は裏付け調査を終えており、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で時間を要しているが、遺族の意思確認が完了すれば返還に応じる方針だ。

 判明の手掛かりは、公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が収集している遺影と名前のデータだった。2万3千人分。同姓同名、あるいは似た名前がないかどうか、記者は814人の名簿と照合した。すると、「広島市皆実町3丁目 梶山ハル」さんの遺影が、画面に現れた。

 市内に住む孫の武人さん(84)を捜し当て、状況を説明した。武人さんは「漢字は間違っとるが祖母でしょう」と語り、おえつを漏らした。原爆供養塔にあるとは思ってなかったという。

先人重ねた苦労

 遺骨と、いまだに遺骨を手にできない遺族を結ぶ―。取材は、「先人」と言える故佐伯敏子さんが重ねた苦労を思うことの連続だった。原爆で家族や親類13人を失い、40年以上供養塔の掃除を続けながら遺骨の引き取り手を捜し歩いた。

 年月という壁はさらに高く、厚くなる。4例目、5例目、と続けることは並大抵ではない。佐伯さんの時代にはなかった、新たな情報収集のすべが必要だろう。困難でも、何とかして死者に対する佐伯さんの思いを継ぎ、遺骨の「空白」を埋める努力を官民で続けるべきではないか。

 「私も人生を通して、忘れられた死者という『空白』と向き合ってきました」。被爆者の森重昭さん(83)=西区=は、広島市内で死亡した米兵捕虜や、長崎の連合軍捕虜たちを長年調査。広島と長崎の追悼平和祈念館に、30人余りの名前や遺影を登録している。

 被爆死した米兵捕虜の遺体が母校の広島陸軍偕行(かいこう)社付属済美(せいび)国民学校で見つかっていた、と後に知ったのがきっかけだった。爆心地から700メートル。森さんは被爆前に転校しており助かったが、人ごとと思えなかった。

 とはいえ米兵捕虜については、不明な点も多かった。資料を集め、原爆資料館が所蔵する「市民が描いた原爆の絵」に関連する描写を見つけると、作者に体験を聞いた。米国の電話番号案内や米軍資料を手掛かりに「被爆死した肉親の最期について真実を伝えるため」遺族を捜し続けた。

 「今更何がしたいのか」と周囲から心ない言葉をかけられたことも。22年前、米兵捕虜が収容されていた場所に私費で銘板を設置し、独りで慰霊祭をした。「あなたたちの死を世の中に知ってもらうから待っとれ」と語りかけ、涙した。

 徐々に協力者が増え、情報も集まり始めた。12人の米兵捕虜の遺族の所在を突き止め、登載済みの2人を除く10人の名前を原爆死没者名簿に刻んだ。

努力のこれから

 森さんは2016年、広島を訪問した当時のオバマ米大統領と面会し、その活動が世界に知られた。実際には米兵捕虜たちだけでなく、市内の修道院にいたフランス人やイタリア人のシスターを原爆死没者名簿に登載する橋渡しなどもしている。「まだ新しい発見があるはず。若い人もやってほしい」と願う。

 ロシア革命を逃れた白系ロシア人をはじめ、名前すら分からない、あるいは遺骨が見つからない原爆犠牲者は大勢いる。失われた命の重みと遺族の悲しみは、皆同じ。一人一人の死を決して忘れない―。森さんの変わらぬ決意は、「空白」を埋める努力のこれからを、私たちの世代に問う。(山本祐司、山下美波)

(2020年6月17日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <1> 市民の手で

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ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <4> 問い直す

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <5> 被害実態の発信

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