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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <3> 資料の活用

公開情報に眠る事実

国と体系的保存を

 被爆体験記、写真、研究論文、医学標本…。原爆被害の実態や戦後の被爆地の歩みを知るには、多種多様な「資料」の保存がいかに大切であるか。取材を通して痛感させられた。

 原爆資料館東館(広島市中区)の辺りは、米国の原爆投下まで「旧天神町」の商店や民家などが立ち並んでいた。市は被爆75年事業の一環で、焼け落ちた住居の土壁などを「遺構」として公開する計画を立てた。

刊行証言に糸口

 公園内には旧天神町の説明看板があり、被爆前の一帯の詳細な「街並み復元図」が掲げられている。約20年前の本紙連載の中で作られた地図だが、よく見ると「空白」が残る。66番地。被爆前に誰が住んでいたのか、確認できないままだった世帯だ。

 体験を証言できる元住民は少なくなった。さらなる確認は困難か―。頭をよぎったが、糸口はあった。市内の臨床心理士らが2018年に刊行した「被爆者の人生を支えたもの」。故大草節郎さんの体験証言に、「66番地」住民だった祖父三五郎さんと祖母タメさんの被爆死が記されていた。

 まさに市が公開する「被爆遺構」の「近所」だ。新型コロナウイルスの影響で、公開は来年度にずれ込む。遺構の展示を推進してきた市民団体の多賀俊介さん(70)=広島市西区=は「現場と周辺にどんな人が住み、犠牲になったのか。公開までに市は本気でデータを集めてほしい。私たちも協力したい」

 体験者の生の証言記録だけでなく、過去の刊行物などの「公開情報」のいたるところに事実が眠っている。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が所蔵する被爆体験記は、14万編以上。資料は日本各地に散在している。それらをつなぎ、犠牲者の名前を丁寧に拾い上げる取り組みを進めれば「空白」はさらに埋まる。

 取材班は、日本がかつて植民地支配していた朝鮮半島にも赴いた。韓国・陜川(ハプチョン)の韓国原爆被害者協会は、会員や家族が広島と長崎で被爆した際の状況などを記録した大量の文書を所蔵する。そこに、広島市が把握していない犠牲者が含まれていた。

 文書の一部は、現地の嶺南(ヨンナム)大の学生たちがデータ化して冊子にもまとめた。今年2月、同協会に労作を寄贈した。大学院生の金東虎(キム・ドンホ)さん(28)は「韓国人被爆者の存在や長期の苦痛の歴史を知ってもらいたい」。崔範洵(チェ・ボムスン)教授は「日韓が国と地方両方のレベルで連携し、活用してほしい」と力を込める。

取り戻せぬ証人

 「資料」の大切さが浮き彫りになる一方で、被爆75年を前に、多くが保存の岐路にある実態も目の当たりにした。被爆者が書きため、自宅に保管する大量の手記や活動記録が持ち主の「終活」に直面している。資料の「劣化」も進む。当事者たちの連携により行き場を見いだす必要がある。

 広島大原爆放射線医科学研究所(原医研、南区)は、戦後占領期に米軍に接収され、30年近く後に返還された原爆犠牲者の組織標本などの経年劣化に頭を痛めている。先立つ予算は限られる。現状を報道すると、医療関係のNPO法人理事長の井内康輝・広島大名誉教授(71)が資料のデジタル化に向けた協力を申し出た。今後も新たな研究への活用が期待できそうだ。

 被爆者たちが全4棟の保存を訴える県、国所有の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」、公的機関だけでなく個人宅にも眠る被爆前の街の写真の数々…。失われたら取り戻せないヒロシマの「証人」だ。国が関与して、重層的、体系的に保存するよう求める声は半世紀以上前から根強い。

 インターネット環境の進展で、世界規模の情報交換は格段に容易になった。記録し、「空白」を埋め、将来の歴史の検証に託すには―。官民がともに考える「場」を被爆地から提起していくことはできないか。(水川恭輔、山本祐司、小林可奈)

(2020年6月18日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <1> 市民の手で

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <2> 遺族捜し

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <4> 問い直す

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <5> 被害実態の発信

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <6> 諦めない

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