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連載・特集

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <3> 戦争の影

合唱に励み勤労奉仕も

 1936(昭和11)年9月、広島女学院付属小4年の河本明子さんは三篠尋常高等小(現三篠小)に転校した。米国人宣教師ロイス・クーパーさんのレッスンを受けていたピアノは、三滝町(現広島市西区)の自宅で日本人の先生に習うようになった。

 「たのしみにしてゐた運動会」「遠足の日がとうとうやって来ました」。明子さんが心躍らせて日記につづった新しい学校での日々は、次第に戦時色を帯びていく。「防空演習なので三時間目に電燈カバ(カバー)を作りました」「かつだう(活動写真)を見ました。満洲の様子がうつしてありました」

 明子さんが6歳まで米国で暮らした河本家。12月24日は「福屋」で買った「プレセント」を家族で贈り合っている。幸せなクリスマスの光景は、この年を最後に日記から姿を消す。

市女受験し合格

 37年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まった。「今日は学げい会でした。私はピヤノと進軍の歌・愛国行進曲を歌ひました」「運動会の練習をやりました。愛国行進曲の遊ぎです」

 38年ごろ日記に何度も出てくる「愛国行進曲」は、内閣情報部が日中戦争開戦直後に作詞、作曲を公募し、37年12月、東京で初演奏された。「見よ東海の空明けて」で始まる勇ましい歌曲は、レコード各社から発売され、国民に広く浸透していった。

 小学6年になった明子さんは受験勉強にまい進。39年3月、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の入試結果が先生から発表された。「五、六番目に『河本さん』といはれた。その時私はつばをごくつとのんだ。家へとんでかへった」と、合格の喜びを書き留めている。



 市女は21(大正10)年の創立時から音楽教育に力を入れ、学校ぐるみで合唱が盛んだった。当時、国内トップレベルの管弦楽隊だった呉海兵団軍楽隊が伴奏に訪れることもあった。音楽教師・沓木良之さんの熱心な指導の下、明子さんはピアノとともに合唱に青春の情熱を注ぐ。

一丸 練習の日々

 「六校時に合唱があつた。千人合唱が近いので必死だわ」「沓木先生が時間割の係りになられたもんだから、なるべく合唱の時間を多くするやうにと頭をねられてゐる」「どうか市女が一番よいやうに、と願った」。日記には、各校から合唱団が集う「千人合唱」に向けて、沓木さんと生徒が一丸となって練習に励む日々が記されている。沓木さんは自宅でピアノ教室を開いており、明子さんも生徒の一人だった。

 海の向こうの戦況は激しさを増し、39年に国民徴用令が公布。学徒の軍需産業への動員が始まり、明子さんも1年の途中から広島陸軍兵器支廠(ししょう)(南区)などで勤労奉仕に従事する。

 「婦人従軍歌」「兵隊さんよありがとう」「軍艦行進曲」…。日記には学校で歌い踊った勇壮な戦意高揚歌のタイトルが並ぶが、15歳の明子さんがひそかに愛唱したのは、遅い春を待ちわびる優しい歌だった。「音楽で『早春の歌』(早春賦)っての習った 私このふし大好き」(西村文)

沓木良之(くつき・よしゆき)
 1893~1979年。広島市生まれ。広島県師範学校(現広島大)卒。1921年から広島市立高等女学校(現舟入高)の音楽教師。公休で在宅中、爆心地から2・6キロの段原地区(現南区)で被爆。学徒動員中の教え子の救助に当たった。同校は教職員を含め計676人が犠牲になった。6男の明さんは原爆で行方不明。戦後は市立第四中(現宇品中)の校長などを務めた。

(2020年6月22日朝刊掲載)

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <1> タンバリンの少女

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <2> 米国から来た先生

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <4> 変わりゆく生活

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <5> 原爆



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