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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <6> 諦めない

一人一人の命 忘れぬ

遺族の悲しみ あの日のまま

 「もしかしたら生きているのかな、と心のどこかで思ってきました。でも、もう無理でしょう…」。広島市安佐南区に住む瀬川美智子さんは、4歳上の夫舜一さんの顔写真をいつも財布に入れている。時折取り出し、見つめると涙がこぼれる。

 104歳。本紙連載を読んで連絡してきた。75年間会えないままの夫への思いを、記者に語った。

幸せだった10年

 瀬川さんは、幼い頃から父の仕事の関係で日本各地を転々とした。1923年の関東大震災で被災し、広島県内の親戚宅に身を寄せたことも。舜一さんと見合いし、34年に18歳で結婚。再び広島で暮らした。

 県会計課の職員だった舜一さんは、第一印象通りの「とにかく優しい人」。4人の子どもとよく遊び、風呂に入れてくれた。「私が『シュークリームが食べたい』とねだると買ってきてくれたの」。戦況が厳しくなってからも、愛情あふれる日常は続いた。

 しかし45年8月6日朝、「行って参ります」と、現在の高須(西区)にあった自宅を出たきり戻らなかった。爆心地から約900メートル南の県庁舎は全焼。県職員計1140人以上が犠牲になったとみられている。舜一さんの弟が焼け跡を捜したが、見つけることはできなかった。

 あの頃の記憶をたどると、胸が詰まる。取材に同席した長女章子さん(84)が言葉を継いだ。「母は毎日縁側に出て、ただただ燃える街を見つめていました」。

 後に県から「ころころと堅い物が入った木箱」を受け取った。本当に遺骨なのかどうか、そうだとして夫の遺骨なのかも分からない。中を見ず墓に納めた。「埋まっているなら県庁跡のどこか」と信じ、舜一さんの名前がある県職員の慰霊碑に手を合わせてきた。

 4人の子を育て上げた瀬川さんは孫、ひ孫、やしゃご合わせて20人以上に恵まれ、穏やかに暮らしている。それでもなお「夫との最も幸せな10年間」を思う切なさは変わらない。

 瀬川さんのように、肉親を今日も思い続けている遺族がいる。原爆被害は、大きな数字や兵器の破壊力で語られがちだが、一人一人の命を、私たちはどれだけ意識してきただろうか。

 取材で特に浮き彫りになったのは、公的記録から漏れ、あるいは人々の記憶からも忘れ去られた死者の不在という「空白」だ。

 生後数時間で被爆死し、市の原爆死没者名簿にも載らない「名前のない赤ちゃん」について報じると、被爆者から「私も同じような子を救護所で見た」と電話が入った。近所の一家が全滅した、という読者は「あの家族も市の死没者調査で『空白』ではないか」と心配する声を寄せてきた。

帰れぬ遺骨なお

 消息も名前も知らない犠牲者に関する情報の提供。調査は困難だと分かっていても、今語らねば「空白」を埋める道が完全に閉ざされかねない―。「あの日」の体験者たちから、そんな危機感が伝わってきた。

 市の「原爆被爆者動態調査」で名前が確認できた45年末までの犠牲者数は、昨年3月末時点で「8万9025人」。よく知られた「14万人±1万人」の推計値と大きな開きがある。まだまだ埋もれた死者がいる。おびただしい数の「帰れぬ遺骨」が眠っている。

 記者たちは「空白」を追いながら、「1人」を突き止める困難さを何度となく痛感した。同時に、できることが到底やり尽くされていないことも、確信した。

 国と市の持つ資料を突き合わせることで、原爆供養塔に眠る1体の遺骨が遺族返還へと前進した。韓国側の記録から朝鮮半島出身の原爆犠牲者の存在を突き止めたが、氷山の一角だろう。現在は原爆資料館となった、まさにその場で被爆死していた住民の名前も新たに確認できた。民間だけでここまでできる、と記者数人で証明した。

 市民、行政が力を合わせ、資料や情報を持ち寄れば、さらに「空白」は埋まるはずだ。私たちには、努力をつなぐ責務がある。人ごとと思い、忘却にまかせるなら、原爆被害を「仕方がなかった過去」と見なすに等しい。そうであれば、いつか「人間的悲惨」は繰り返される。

 諦めてはならない。(水川恭輔、山本祐司、山下美波)

(2020年6月23日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <1> 市民の手で

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <2> 遺族捜し

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <3> 資料の活用

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <4> 問い直す

ヒロシマの空白 被爆75年 つなぐ責務 <5> 被害実態の発信

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