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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 森田裕美 シベリア特措法10年

声なき抑留者の尊厳どこへ

 シベリア特措法が制定されて10年を迎えた。議員立法による同法は、シベリア抑留経験者への特別給付金支給と、実態解明を柱とする。

 「戦後処理は終わった」との立場を貫いていた日本政府に、同法で一定の補償をさせた意義は大きい。しかしなお多くの課題が残っている。

 旧満州(中国東北部)から旧ソ連軍の管理地域に連行され、劣悪な環境で過酷な労働を強いられた元日本軍兵士や民間人は60万人にも上るといわれる。うち生還できたのは約47万3千人(厚生労働省推定)とされるが、給付金を受け取れたのは約6万9千人にすぎない。亡くなった人や外国籍の人は対象でないからだ。

 もう一つ、同法が政府に課す、抑留中死亡者の調査や遺骨・遺品の収集、後世への継承も進んでいない。10年たった今も正確な死者数さえ把握できていないのが実情である。

 戦後75年。帰国後も差別や偏見に苦しんだ元抑留者の平均年齢は100歳近い。遺族の高齢化も進む。「尊厳の回復を」と長きにわたる運動が実らせた特措法を、真に実効力あるものにせねばならない。

 <今さらに言うにあらねど六十万捕虜のひとりのわが父ひとり>

 広島市南区の歌人相原由美さん(81)が5年前刊行した歌集に収めている。詠んだ当時、相原さんは父の最期を知らなかったという。

 父・上野米次郎さんは戦時中、旧満州の満鉄関連会社に勤めていた。家族で奉天(現・瀋陽)にいたが、米次郎さんは1944年に召集。敗戦で兵役を解かれた後に再会できたものの、それきりになった。戦後何年もたち、戦友という人から、シベリアで伐採作業中に大木の下敷きになった米次郎さんを見たと聞いた。

 父の最期について知ったのはつい3年前のことだ。ロシアから提供された資料が厚労省から届いた。「ウエノヨフネジロ」。簡単な日本語訳から、46年3月6日に現地の病院で「両側気管支肺炎」のため亡くなっていたことが分かった。

 それとは別にロシア語の資料も同封されていた。つてを頼って2カ月かけて翻訳してもらうと、入院から亡くなるまでの様子が細かく記されたカルテだった。「食欲はじゅうぶん」「うわごとを言っている」。凍土の上で息絶えたと思っていた父が1カ月余り手厚い看護を受けていたと知り、「ほっとした」と言う。  しかしこうした資料は、高齢の遺族たちが自ら書類をそろえ、申請しないと入手できない。しかも訳が付いているのは概要だけ。翻訳するすべがなければ、相原さんも病院での詳細は分からないままだった。「遺骨も遺品もない家族には資料は生きた証し。もう少し一人一人を大切にしてもらえたら遺族の気持ちも穏やかになる」と話す。

 厚労省の資料によれば、抑留中に死亡した約5万5千人のうち昨年度までに身元特定できたのは約4万人。約1万5千人は不明で、年々特定のペースも落ちている。収集できた遺骨も約2万柱にとどまる。

 さらに昨年、厚労省が進める遺骨収集事業で驚くべき事態が明らかになった。シベリアで死亡した日本人のものとして厚労省の派遣団が収集した遺骨597柱の多くが日本人のものでない可能性があると判明したのである。専門家が14年以上も前から疑いを指摘していたのに厚労省は放置し、公表しなかったことも明らかになった。収集数を優先し、亡くなった人や遺族への敬意を欠いていたのなら許されない。

 問題の背景には何があるのか。「シベリア抑留者支援・記録センター」(東京)の有光健代表世話人は「抑留したソ連軍を引き継ぐロシア軍の協力を得ることが不可欠なのに日本政府にそれができていない」と指摘する。厚労省任せにするのではなく、トップ会談で抑留問題を取り上げるなど「国を挙げて新たな戦略を練る必要がある」と訴える。

 国際法に反し、捕虜を不当に抑留した旧ソ連の責任は免れない。

 しかし、両国が請求権を相互放棄している以上、日本政府が責任を持つ。それが特措法の趣旨である。

 長年辛苦を味わってきた元抑留者たちは特措法ができた時、「奴隷ではなく人間であった証し」と受け止めた。全容を明らかにし、後世に伝える―。そうしてこそ、声なき抑留者たちの尊厳が取り戻せる。

(2020年7月2日朝刊掲載)

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