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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

先人に𠮟咤激励されて

 人間に史上初めて落とされた原爆の惨禍は、どう受け止められてきたのか。宇吹暁(さとる)さん(73)は、膨大な資料収集を基に研究を深めてきた。歴史家の歩みから被爆地ヒロシマの変遷と継承の在り方を考える。

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 新型コロナウイルスの感染には気を付けていますね。「ヒロシマ戦後史」を岩波書店から2014年に出版した翌年、左肺の気胸手術を受けたんです。緊急事態宣言が解除された5月以降も、呉市内の自宅をほとんど離れていません。体力保持のために夕食後の日課、妻の順子(よりこ)が付き添う散歩は別ですが。

 それもあって、集めてきた資料の「終活」を進めています。自宅近くの書庫にも収める資料を整理し、2年前に開設したサイト「ヒロシマ遺文」へ情報を上げていますが、段ボール箱やファイルを開けるたび、読み返したり関連する資料を探したり。巣ごもりしていても時間が足りない。「資料屋」の性分でしょう。

 私のヒロシマ史研究は、いわれてみれば半世紀となります。広島県史編さん室(現県立文書館)に勤めたのが1970年。「原爆資料編」や「原爆三十年」を手掛け、広島大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)の付属原爆被災学術資料センターに移ったのが76年。手書きからの「資料調査通信」も発行した原医研を2001年に辞め、広島女学院大で10年間若い人たちと接し、日本史を主に担当しました。

 行政と大学に所属した研究は、「原爆に取りつかれた」とでもいうべき先人たちのことを考えると恵まれたと思います。「あんたは原爆で飯を食っとる」。面と向かって言われ、負い目も感じてきました。

 「庶民の歴史を世界史にする」。日本原水爆被害者団体協議会の礎をつくった藤居平一さん(96年、80歳で死去)から聞いた言葉は忘れられません。重要な務めを果たした多くの人との出会いがあった。𠮟咤(しった)激励されました。今堀誠二さん(92年、77歳で死去)の「原水爆時代」(上巻は59年、下巻60年刊)を、乗り越えるべき視点と捉えるようにもなった。しかし、先人の背を常に追って歩んできた気がしています。(この連載は西本雅実が担当します)

(2020年7月14日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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