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連載・特集

被爆75年 岐路の被爆者団体 <2> 細る営み

絵筆で証言 90歳の覚悟

 人の背丈ほどある大きなカンバス。そこに描かれた油彩画は、抽象化した太陽や海が温かく穏やかな輝きを放つ。

 山形県鶴岡市の「つるおか被爆者の会」会長三浦恒祺(つねき)さん(90)は証言活動に加え絵画を通じて「核のない平和な世界を訴え続けたい」と話す。会の活動と並行しながら描き続ける連作「原爆の形象」は約60年で43作品を刻む。一方で会員は高齢化が進み、3人にまで減った。

 東京で生まれた三浦さんは5歳ごろ、父元吉さんの転勤で広島市の南千田町に引っ越す。原爆投下時は宇品町にあった旧制広陵中の2年生だった。建物疎開で出た荷物などを運搬する業務に動員された。  大型トラックに同級生数人と乗り合わせ、市内から横川駅を通り過ぎて北進中だった。「閃光(せんこう)と爆音で市内を振り返ると、立ち上るきのこ雲が夏空の薄雲を押し流していた」

 トラックは市内へ引き返す。がれきに道をふさがれ、歩いて約4キロ先の自宅を目指した。道すがら、衣服が焼けて全身真っ黒の人たちとすれ違った。「水をくれませんか」と請われた。すみません、ありません―。「せめて一口でもあげられたらと、今でも悔しくて」とまぶたをつぶる。

31歳で第1作

 父母をはじめ、広島商業学校(現県立広島商業高)1年と学童疎開中だった千田国民学校5年の弟2人も奇跡的にけがを負わなかった。終戦を告げる「玉音放送」が流れた8月15日、両親の故郷の鶴岡市に引っ越した。

 子どものころから絵を描くのが好きだった。進学や地元銀行への就職後も描き続けた。「被爆体験を描こうとカンバスに何度も向かったけど、あまりにも残酷すぎて表現できなかった」

 戦後にモダンアートが流行し「抽象画なら」と1961年、31歳で「原爆の形象」第1作を生み出す。破壊をテーマに、黒い煙や真っ赤な炎を渦巻かせた。

 母校の広陵高に第1作を寄贈した95年、入市被爆で被爆者健康手帳を取得。翌年、地元鶴岡市の被爆者の会に入会した。会員は18人だった。連作も再開した。ヒロシマの「破壊」から、庄内平野や沿岸に広がる日本海の自然がたたえる「平和」に、テーマのバランスが次第に変わっていった。

 変化が加速したきっかけは2016年のオバマ米大統領、19年のローマ教皇フランシスコの広島訪問だった。平和記念公園(中区)でオバマ氏と被爆者が抱き合う姿に涙した。「言葉の謝罪はなかったが、心ではわびていたのではないか」

 核の脅威だけでなく平和の美しさを伝えようと決めた。ことし6月に完成した43作目の片隅には、ローマ教皇の訪問を祝う白い十字架を潜めた。

県内唯一の会

 この間、山形県の被爆者団体をまとめる山形県原爆被害者の会が解散し、鶴岡市の会が県内唯一となった。被爆2世が継承する予定もない。定期的な会合も久しく開けない状態が続く。「会の活動や証言活動は私たちで最後」と覚悟を決めている。主立った活動と言えば2年前、鶴岡市議会へ核兵器禁止条約に日本が批准することを促すよう請願した。結果は否決だった。

 それでも山形に被爆者がいた証しとして、「若い世代も平和を世界に発信してほしい」と願う。地元中学校の平和学習に招かれると、手描きした新聞紙大の絵図で惨状を伝え続ける。

 地元や隣の酒田市では連作の個展を開いており、「次は白寿(99歳)で」と見据える。核なき世界を求めて命ある限り、絵筆での「証言活動」を続けていく。(桑原正敏)

(2020年7月22日朝刊掲載)

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