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連載・特集

被爆75年 岐路の被爆者団体 <3> ひとり

平和の訴え 仲間に託す

 「生きているうちは這(は)ってでも原爆について証言するけれど、形にはこだわらない。思いを引き継いでくれる仲間がいるから」。石川県原爆被災者友の会(金沢市)の西本多美子会長(79)=金沢市=が、約20年間、ともに平和を訴えてきた元小学校教諭川崎正美さん(65)=石川県白山市=に目を向けた。

次々現役退く

 石川には被爆者が69人いるが、現役で証言活動を担っているのは西本さん1人となった。かつては熱心な役員もいたが、福祉施設に入ったり、亡くなったり。大半の人は現在、友の会に名前を連ねるだけという。

 75年前のあの日、当時4歳の西本さんは段原末広町(現広島市南区)の自宅にいた。爆心地から2・3キロ。「B29だ」。男の子の叫び声を聞いた直後、閃光(せんこう)を浴びた。

 自宅近くのぶどう畑で3日間を過ごした。近くに寝かされた女学生らしい人の姿が脳裏に焼き付いている。全身にやけどを負い顔は膨れ、表情も分からなかった。

 父親の実家がある八千代町(現安芸高田市)で暮らし、小学2年の時に基町(現中区)の市営住宅に引っ越した。粗末な造りで生活は苦しく、多くの住民が家族を亡くしていた。「原爆で人生を狂わされた人たちの中で暮らした。一人の被爆者として、核兵器廃絶に声を上げるのは当たり前のことだった」  保険会社の事務員として働く傍ら、日本原水協の活動に参加。1974年、夫の転勤で金沢市に移り、60年に結成された石川県原爆被災者友の会に加わった。

 広島から離れた北陸地方。被爆者の存在はほとんど知られていなかった。石川では最も多い時で約240人を数えたが「誰にも明かさない人が多かった。結婚を避けられるなど差別もひどかった」。後遺症に苦しむ人たちに寄り添い、被爆者健康手帳や原爆症認定の申請を手伝った。

像建立や楽曲

 石川でも原爆の悲劇を伝える平和のシンボルを作りたい―。西本さんは仲間とともに98年8月、金沢市東部の卯辰山にブロンズ像「平和の子ら」を建立。県内で活動するフォークグループに、像と同じタイトルの楽曲の制作を依頼した。そのグループに川崎さんがいた。

 曲は毎年7月末、像の前で開く平和集会で歌い継いでいる。昨年6月にはCD化し、石川の全ての小学校に贈った。主体は、川崎さんや地元合唱団、平和問題に関心を寄せるサークルのメンバーたち14人でつくる委員会。「友の会があるうちに、曲を形として残したい」という西本さんの願いに応えるためだった。

 1人になっても、被爆者の思いを次代に伝えようとする西本さん。川崎さんはその背中をずっと見てきた。「被爆者運動は平和運動。担い手が被爆者や被爆2世であるかどうかは関係ない」。老いてなお懸命に使命を果たす被爆者の姿を間近で見てきた私たちが、活動を終わらせることなく未来につなげたい―。そんな思いを強くしている。

 新たに始めた活動の一つに、16歳の時に広島で被爆し、友の会を創設した岩佐幹三さん(91)=千葉県船橋市=の体験をまとめた紙芝居の制作がある。約30年前に小学生たちが描き、使われずに眠っていた作品に注目。あらためて岩佐さんの話を聞き、子どもに分かりやすいよう台本を修正した。24枚からなる紙芝居は8月末に完成する。

 紙芝居の初演を考えていた今月末の平和集会は、新型コロナウイルスの影響で見送りが決まった。それでも西本さんは、川崎さんたちの存在に感謝する。「いずれ被爆者団体の看板を下ろす日がくる。だがここ石川では、平和を目指す活動が必ず残る」と信じている。(新山京子)

(2020年7月23日朝刊掲載)

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