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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第3部 賀茂台地の記憶 <1> 被爆地へ

若者召集 救援に向かう 隊員碑建立 10年近く式典

 1945年8月7日の朝。到着した広島市で見た惨状は今も脳裏にこびりついている。「地獄じゃった」。光本充晴さん(92)=東広島市西条町下見=は17歳の夏の記憶をたどった。

 原爆が投下された8月6日の夕方。西条農学校(現西条農高)3年だった光本さんは、賀茂郡北部(現東広島市)の若者たちでつくる国土防衛隊「賀北部隊」に急きょ召集された。翌朝、西条駅から始発列車に乗った。200人余りとされる隊員の最若手。壊滅した広島の救援と聞かされたのは、出発後だった。

 焼け野原には皮膚が垂れ下がった人や全身やけどの人があちこちにいた。西練兵場(現中区基町)周辺で何人もの遺体を担ぎ、焼いた。「兵隊さん、この子に水を分けてもらえませんか」。動かない子を抱えた母親に請われ、水筒を渡したこともあった。「ざわめきの中に不気味な静寂があった」と回想する。

高齢化 途絶える

 西条に戻ったのは同13日。体調を崩し、しばらくして亡くなる隊員もいた。

 87年、元隊員たちが「原爆の悲惨さを後世に伝える」と隊員の名前を刻んだ碑を市内に建立。翌88年、元隊員による賀北部隊友の会が結成され、代表に就いた。8月7日に催す式典は10年近く続いたが、高齢化で参加者が減り途絶えた。「今は連絡も取れていない。もうほとんどが生きとらんでしょう」

 現在の東広島市にあたる賀茂郡や豊田郡では、他にも広島への救援隊が続々と結成された。8月6日から医療活動をした賀茂海軍衛生学校(現黒瀬町)の学生や、被爆11日後に入った旧制賀茂高等女学校(賀茂高女=現賀茂高)の生徒たち。各地の警防団が相次いで向かった記録も残る。

 市原爆被爆資料保存推進協議会の井東茂夫さん(90)=西条町寺家=は「東広島の住民は救援の尽力とともに集団での医療データ提供で協力をした例もある」と語る。一方、記憶の風化への懸念も示す。

手記集基に楽曲

 市内には体験を引き継ごうとする動きもある。青少年オーケストラを指導する有谿(ありたに)英彰さん(65)=西条西本町=の取り組みはその一つ。賀茂高女の生徒の手記集を基に、合唱曲と語りからなる楽曲を17年前に制作。ことし1月には賀北部隊の手記を題材に合唱曲「賀北部隊へ捧(ささ)ぐ」を完成させた。

 「当時10代だった若者の文章は胸に迫る。音楽を手段にすれば幅広い世代に伝わるはず。そうしなければ、知る人がいなくなってしまう」と有谿さんは言う。楽曲は毎年8月、市の原爆死没者慰霊式の会場で披露されている。(長久豪佑)

    ◇

 戦火を免れた現在の東広島市にも戦時下の痕跡が残る。被爆地で救護に励んだ若者には癒えない思いが刻まれ、農村では疎開児童との交流が深まった。記憶や遺構を次世代につなごうとする人たちにスポットを当てる。

<現在の東広島市から被爆地に向かった救援部隊の例>

賀北部隊      8月7日に広島入り。負傷者の救護や遺体の火葬に従事
傷痍(しょうい)  現東広島医療センター。医師や看護婦たちが6日から救護活動
軍人広島療養所
賀茂海軍衛生学校  学生たちが6日から横川などで救護活動
賀茂高女      3、4年生と教員が17日から本川、大河などの国民学校で救
          護活動

(市原爆被爆資料保存推進協議会などから)

(2020年7月24日朝刊掲載)

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