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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第3部 賀茂台地の記憶 <2> 学童疎開

故郷の呉を向き泣いた 石碑に歴史・親交刻む

 日本各地の都市が次々と米軍の空襲を受けていた1945年4月、竹仁村の長円寺(東広島市福富町下竹仁)に、呉市の三坂地国民学校(現三坂地小)の児童が身を寄せてきた。疎開生活は約5カ月間にわたり、人数は計約50人に上った。

 「三坂地の子どもは呉の方角に向いてよう泣きよったわ」と話すのは当時、竹仁国民学校(現竹仁小)6年だった金田洋司さん(86)=福富町下竹仁。同級生の禎田邦生さん(86)=西条町御薗宇=と藤田正輝さん(86)=広島市佐伯区=も「6年生がなだめて本堂に連れて帰りよったな」と振り返る。「ノミにかまれて肌着が真っ赤になっていた」などの思い出がある中、3人には2人の男子児童の記憶が強く残る。

抜け出し死亡も

 6月4日に来た9人のうち男子2人が10日、親に会いたい一心で抜け出した。2人は西志和村(現在の山陽自動車道志和IC付近)まで行ったが、泥水を飲んだことで1人が倒れ、21日に亡くなったという。

 観山道雄住職(48年11月に31歳で死去)が記した日記にも、「第二次疎開が来て最初の日曜日であった。十日だったと思ふ。男の子供が二人連れだって山へ行って今にかへらないといふ事を知った」とある。そして「私は今朝未明、ついに死んで行った疎開児童の一人を思って淋(さび)しい」とつづられていた。

 三坂地国民学校6年生だった真田美代子さん(86)=呉市広中迫町=は「池のカエルを捕って揚げ物にしてもらったのを覚えとる。近所の農家にも食べ物をたくさんいただいた」。疎開生活について「短い間だったけど、古里のような懐かしさを感じている。今でも感謝しかない」と話す。

節目には同窓会

 三坂地の児童が8月に全員帰った後も、竹仁地域との交流は続いた。両校の同窓生は、戦争の歴史や親交の証しを残そうと竹仁小に56年に「友情の碑」、三坂地小には75年に「友情の樹」を建立。竹仁小と長円寺を巡る同窓会を戦後30、50、60年の節目に開いた。「元気にしとった」「あん時の先生は怖かったね」。顔を会わせての会話が当時の思い出をつないできた。

 しかし同窓生の高齢化により、交流はだんだん難しくなってきた。そうした中、来春閉校する竹仁小では、児童が歴史を学ぶ動きが出ている。6年生8人が今月初旬に石碑を訪問。疎開を含む同小の歴史を「閉校記念誌」にまとめる予定だ。担任の香川大輔教諭(31)は「戦後75年と閉校を控える今が石碑を身近に感じられるいい機会。子どもたちにしっかりと伝えていきたい」と話す。(高橋寧々)

(2020年7月25日朝刊掲載)

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