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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第3部 賀茂台地の記憶 <4> 海軍山

敵機見張る施設保存

原爆投下のB29も確認

 広島市安芸区との境に近い東広島市志和町奥屋の大谷山(514メートル)は、地元では「海軍山」という別名で知られる。志和側の麓から約1・5キロの登山道を進むと、山頂付近に別名の由縁となった建造物跡が見える。

 「これが75年前の声なき証人です」。平原昭雄さん(79)が汗を拭いながら、「中野村聴測照射所」の遺構の解説をしてくれた。

隣の村名付ける

 1941年、旧日本海軍が敵機を見張る防空施設として築き、大型の聴音機や探照灯、兵舎、発電施設を備えた。通信室などがあった司令棟は外観をとどめるが、多くは土台の跡を残すのみ。カムフラージュのため隣接する中野村(当時)の地名を付けたとみられる。

 「西條方向ニ大型機 爆音ヲ聴取ス」

 残存する警備兵の日誌の45年8月6日午前8時10分すぎの記録である。警備兵は広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの飛来を確認し、中国軍管区司令部(現広島市中区)に伝えた。しかし、あまりに直前だったためか、広島市民に警報が伝わることはなかった。原爆さく裂時の様子も日誌には詳報されている。

 戦後、一部設備は連合国軍総司令部(GHQ)に引き渡された。当時貴重だった金属なども誰かが持ち去り、荒廃したまま木々に覆い隠されてきた。

 平原さんが生まれ育った自宅は麓の登山口のすぐ近く。約10年前から、仲間と周辺の山の遊歩道整備をする「ふるさとの里山を守る会」の活動の一環で、遺構の保存活動を続ける。活動は叔父の忠記さんの存在もきっかけになった。75年前は呉海軍工廠(こうしょう)(呉市)で働き、照射所の機器の組み立てにも従事した。しかし45年6月、海軍の輸送船で東シナ海を航行中に米軍の攻撃を受け戦死した。26歳だった。

5年かけ道復活

 「『お国のため』と言って亡くなった叔父がねじを締めた施設がなぜここにあるのか、知りたかった」。資料を集め、点在する17の施設跡に案内板を付けた。獣道だった登山道は木を伐採してロープを張り、5年かけて復活させた。

 照射所の築造に当たっては、地元の人も部材を背負って山道を登ったとされる。「地域の歴史を見つめ直してほしい」と2015年には平和登山のイベントも始めた。

 真珠湾攻撃を機に、米軍の本土爆撃に備えて日本各地に築かれた見張所の一つである遺構を、平原さんは「戦争の始まりと、日本による加害の歴史を伝える遺産」と捉えている。「二度と戦争を起こさないという教訓とともに、後世につなぎたい」と力を込める。(長久豪佑)

(2020年7月27日朝刊掲載)

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