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連載・特集

「黒い雨」訴訟 初の司法判断を前に <下> 老いとの闘い

判決を聞けず 16人逝く 4年余「被爆者と認めて」

 2015年11月の提訴から4年9カ月。「黒い雨」訴訟の原告の一人、広島市佐伯区湯来町(当時は広島県佐伯郡水内村)の本毛稔さんは80歳になった。「ずいぶん時間がかかったね…」。自宅のそばを流れる水内川に目を向けた。

 1945年8月6日はよく晴れていたという。5歳だった本毛さんは、今も暮らす自宅前で母マサコさん=当時(26)=と麦の出荷を手伝っていた。弟の昭雄さん=同(2)=もそばにいた。「空が突然ピカッと光り、地鳴りがするほどのドーンという衝撃が響いた。しばらくして空にきのこ雲が立ち上がって、真っ黒い雨や灰が降ってきた」

川が境界線に

 雨や灰に混じった焦げた紙くずを昭雄さんと拾って遊んでいると、近所の男性から触らないよう諭された。家に帰ると、着ていた白いシャツには黒い染みができていた。昭雄さんはその後、日に日に体調を崩して翌9月、肝硬変で亡くなった。

 本毛さんも20代半ばまで原因不明の鼻血に悩まされた。40代も半ばを過ぎた87年、気象庁気象研究所の元研究室長による黒い雨降雨域の調査に協力したマサコさんが自宅に戻り、つぶやいた。「小さい子どもは放射線の影響を受けやすいらしい。昭雄が死んだのは原爆が原因だったのかも」

 自身の体調不良、弟の死、黒い雨…。本毛さんの中で初めて結び付いた。国が76年に援護対象区域に指定した「大雨地域」の地図を確認した。自宅の約100メートル先を流れる水内川が境界となり、川向こうが大雨地域、自宅周辺は小雨地域となっていた。自分と母は国の援護対象外だった。

 本毛さんは2002年に白内障を患い、3回の手術を経験。今も変形性腰椎症の後遺症に苦しむ。いずれも、大雨地域で黒い雨を浴びていたならば、国の援護対象となる疾病だ。「私も昭雄も間違いなく黒い雨を浴びたのに、どうして川で援護の線引きができるのか。川に沿って雨が降ったというのか」  証人として法廷に立ち、裁判に参加していないものの黒い雨に苦しんできた人たちの思いも背負い、語った。「一刻も早く、みんなの救済につなげたかった。その一心だった」

 しかし裁判は時間を要した。原告の老いは進み、提訴後に16人が亡くなった。原告団の最年長で副団長だった安芸太田町の松本正行さんも今年3月、94歳で死去。国が大雨地域を指定した2年後の78年、県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会を発起人の1人として設立し、国に区域拡大を求める活動の中心に立った。「(訴えが)成就しないと死ねん」が口癖だった。

「1日も早く」

 29日、判決の時を迎える。「残された時間は少ない。1日でも早く援護対象区域を広げ『被爆者』と認めてほしい」。本毛さんは原告団の思いを代弁する。

 毎年8月6日は、平和記念式典を自宅のテレビで見た後、仏壇に手を合わせ、昭雄さんと04年に胆のうがんのため86歳で亡くなったマサコさんに語り掛ける。

 「今年は裁判の結果も報告しないと。いい結果を伝えたいですね」。75年前のあの日、きのこ雲を見た南東の空を仰いだ。(松本輝)

「黒い雨」訴訟
 原爆投下後に放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びたのに、被爆者健康手帳の交付申請を却下したのは違法などとして、広島市や広島県安芸太田町の70~90代の男女計84人(うち9人は死亡)が市と県に却下処分の取り消しを求め、2015年11月、17年6月、18年9月に順次提訴した。国が援護対象とする「大雨地域」の線引きの妥当性が最大の争点で、初の司法判断となる。

(2020年7月29日朝刊掲載)

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