×

連載・特集

被爆75年 岐路の被爆者団体 <6> 継続

追悼式挙行 2世が支え

 仙台市の市戦災復興記念館で19日あった原爆犠牲者の追悼平和祈念式典。「宮城県原爆死没者之霊」と書かれた標柱に向き合うと、県原爆被害者の会の会長木村緋紗子さん(83)=仙台市=は目を潤ませた。「未曽有の大惨禍から75年。ひとときもあのむごさは脳裏から消えたことはない」。広島で被爆した木村さんの言葉に、市民ら約90人が聞き入った。

 毎夏の式典は34回を数える。新型コロナウイルスの影響が続く中でも「この1年間で亡くなった被爆者を必ず追悼しなければならない」と、木村さんが挙行を決めた。マスク着用やいすの消毒など感染防止対策を徹底する一方、第2部の懇親会は取りやめた。

悔しさ原点に

 被爆者の高齢化が進む。会員数は約30年前の2割となる約30人。このうち今年の式典に出席した被爆者は4人だった。昨年9月、会計担当として会を支えた被爆者の女性が肺がんで亡くなり、木村さんが実質一人で切り盛りする状況。それでも「父を奪われた悔しさが私の原点。式典は私が生きている限り続ける」と前を向く。

 あの日。爆心地から1・6キロの大須賀町(現広島市東区)にある祖父の別宅で被爆した。飛び散ったガラス片で顔を切った以外は目立った外傷がなかった木村さんに対し、内科医の父は大やけどを負った。爆心地から0・7キロの堀川町(現中区)の自宅付近で往診に向かう途中だった。

 3日後の夜、いまわの際に父は言い残した。「俺は無念でならぬ」

 被爆者運動との出合いは東京だった。兄弟の進学に合わせて一家で上京。亡父の言葉を胸に刻んでいた木村さんは自然と運動に身を投じていく。結婚し、約40年前から暮らし始めたのが仙台市。宮城県原爆被害者の会に加わって長く事務局長を務め昨年4月、会長に就いた。

 原爆を落とした米国にも訴えを届けた。2005、10、15年の3度、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、日本被団協の代表団としてニューヨークへ渡った。「父を返せ」。デモ行進ではこう叫び、米国の学生らにも被爆体験を語り「核兵器をなくさなければならない」と説いた。

 80歳を超えて体力の衰えも感じている。子宮がんや白内障などで7回手術し、両膝に人工関節を入れた。「長く立っているのがつらくてね」。歩行時はつえを手放せない。それでも宮城県内の小中高校で被爆体験を語る活動を続ける。

後継者に期待

 木村さんが後継者として期待するのは、一緒に暮らす会社員の長男仁紀(まさのり)さん(52)たち被爆2世の会員だ。仁紀さんは約5年前から、同会主催の式典や原爆パネル展の会場設営を手伝う。さらに昨年の式典からは、木村さんが務めていた司会も2世の女性に任せている。

 仁紀さんは「まだ戸惑いながら手伝っているけれど、いつかは受け継がなければ、と思っている」と自覚する。今春に予定されたNPT再検討会議には、初めて仁紀さんも被団協の代表団に加わる予定だった。コロナ禍で延期になったため、開催日程を見て渡米するかを決めるつもりだ。

 被爆75年の8月6日。木村さんは広島市中区の平和記念公園で営まれる平和記念式典に遺族代表として出席する。「私の姿を見て、長男たちも受け継ごうという思いを強めてくれるはず」。そう信じながら、南区稲荷町にある父の墓に参る予定でいる。(河野揚)

(2020年7月30日朝刊掲載)

年別アーカイブ