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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 寺前妙子さんー左目失い 絶望から前へ

寺前妙子(てらまえ・たえこ)さん(90)=広島市安佐南区

妹たちの死 平和を叫びながら生きる

 爆心地から550メートルという近さで被爆し、左目を失った寺前(旧姓中前)妙子さん(90)は、20代半ばから被爆者運動の先頭に立ってきました。「お国のため」に一生懸命(いっしょうけんめい)働き、1発の原子爆弾で体が不自由になった障害者の苦悩を知ってもらおうと訴(うった)えたのです。

電話の交換業務

 1945年8月、進徳高等女学校(現進徳女子高)の3年生だった寺前さんは、広島市下中町(現中区袋町)の広島中央電話局に動員され、同級生たちと電話の交換業務(こうかんぎょうむ)を担当していました。6日は朝早く観音村(現佐伯区)の自宅を出て、8時前には既に職場に着いていました。

 休憩室(きゅうけいしつ)で友達とおしゃべりをし、2階の交換室へ戻ろうと廊下に出た時です。突然、ピカーっとものすごい閃光(せんこう)を浴び、爆風で「ガラガラ」「ザアッ」と天井のコンクリートが崩れ落ちました。瞬(またた)く間にがれきの下敷きになりました。

 やっとの思いではい出し、ぼうぜんとしていると、暗闇(くらやみ)の中から突然、担任の脇田千代子先生が「学徒は学徒らしく、しっかり頑張(がんば)るのよ!」と叫ぶ声が聞こえました。その声に奮(ふる)い立ち、2階の窓から飛び降りると、至る所で炎が上がり、人びとが逃げ惑っていました。

 火の手が迫ってきます。友達と声を掛(か)け合って比治山を目指し、鶴見橋(つるみばし)付近から京橋川へ飛び込みました。手足が硬直(こうちょく)して徐々(じょじょ)に息苦しくなりましたが、脇田先生に励まされながら対岸へたどり着きました。白い体操服は血で真っ赤に染まっています。左眼はつぶれ、頰(ほお)や顎(あご)は飛び散ったガラスで裂(さ)けていたのです。その後、意識が遠のいていきました。

 目覚めると、広島湾に浮かぶ金輪島へ搬送(はんそう)されていました。顔を包帯でぐるぐる巻きに覆(おお)われ、何も見えません。周囲は負傷者であふれており、時折、兵隊や看護師が様子を見に来るだけの心細い日々が続きました。「妙ちゃんや。お父ちゃん来たで」―。父の晟(あきら)さんが迎えに来たのは6日ぐらい後のことです。

 このとき、大好きだった妹、恵美子さんの死を知らされます。春に広島県立第一高等女学校(現皆実高)に入学した13歳。爆心地から約900メートルの小網町(現中区)一帯で、空襲時(くうしゅうじ)の延焼を防ぐために家屋を取り壊(こわ)す建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)に参加していました。炎天下で熱線を浴び、全身大やけどに苦しみながら翌日、息を引き取りました。一緒にいた同級生280人もみんな亡くなりました。

 自宅に戻った寺前さんは40度以上の高熱に苦しみ、体中に紫色の斑点が出ました。家族が家じゅうの鏡を隠していましたが、ある日こっそり鏡をのぞき込み、現実を突きつけられました。「この姿で生きなければならないのか。アメリカが憎(にく)い。死んでおけばよかった」―。

被爆者救済に力

 病床(びょうしょう)で嘆(なげ)き悲しみながらも、両親に支えられて寺前さんは、再び前を向き始めます。「犠牲(ぎせい)は私たちでもうたくさん。平和を叫びながら生きていく」と、作家の山代巴さんたちが53年に編集した手記集「原爆に生きて」に「牧かよ子」のペンネームで寄稿。被爆者運動の草創期を支えた川手健さん、吉川清さんや詩人の峠三吉さんが設立した「原爆被害者の会」に加わり、被爆者救済を求める一歩を踏み出しました。

 さらに、学徒動員中にけがを負った人たちや、建物疎開に出ていたわが子を失った遺族たちと手を携え、57年に「広島県動員学徒犠牲者の会」を結成。初代会長に就き、被害への国家補償を求めて国会に何度も陳情しました。

 被爆者への差別を恐れず、20代の若さで自分の身をさらしながら行動した寺前さんを突き動かしたのは、突然命を奪われた妹や下級生たちの存在です。「たくさんの少年と少女が、日本は勝つと、信じた末に全身を焼かれたのです。このままでは犬死にも同然」。67年には、寄付金を集めて平和記念公園に動員学徒慰霊塔も建立しました。

病気と闘い続く

 縁(えん)あって33歳で結婚。近距離被爆(きんきょりひばく)の後遺症(こういしょう)に不安を感じていましたが、元気な男の子に恵まれました。無事に生まれてきてくれたことが、本当にうれしかったそうです。しかし、熱線とともに大量の放射線に体をさらされた寺前さんの人生は、乳がんや子宮がんを患(わずら)うなど、病気との過酷な闘いの連続でもあります。

 90歳になり、長年続けてきた証言活動も難しくなっています。それでも「世界中の人がお互(たが)いを思いやり、戦争のない世の中へ向かってほしい。何としてもあの人たちの死を無駄にしてはいけない」と次世代に託す強い願いは変わりません。(桑島美帆)

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私たち10代の感想

少女の恐怖想像 悲しく

 爆心地からわずか550メートルで被爆した人の話は初めてでした。当時15歳の寺前さんは「早く逃げないと!」と自分に言い聞かせ、燃えさかる炎から離れようという一心で逃げたのです。僕と同世代の少女が、地獄(じごく)のような街で混乱し、恐怖を感じていたことを想像すると、とても悲しい気持ちになりました。(高3フィリックス・ウォルシュ)

行動力感銘 見習いたい

 寺前さんは、大切な顔を傷つけられながらも、犠牲になった中学生や女学生を思って慰霊塔を建立したり、遺族への国家補償を求める運動に参加したりしました。その行動力に感銘(かんめい)を受け、私も見習いたいと感じました。「世界中の人が笑顔で過ごしてほしい」という言葉を受け止め、ヒロシマの実態を発信していきます。(中2田口詩乃)

引率の教師を思い感動

 寺前さんたちを必死で励まし、救護所まで運んだ先生はまだ22歳でした。学徒が助かってほしいという気持ちでいっぱいだったと思います。先生もきっと怖かったはずです。想像すると胸がつまりました。寺前さんの「ありがとう」という気持ちは先生に伝わっているはずです。2人の絆はずっと繋がっている気がしました。(中1相馬吏子)

感謝し学生生活楽しむ

 「しゃんとしんさいよ」と、いつも寺前さんを励ましていた妹は、原爆で亡くなりました。私と同じ中学1年生。早過ぎる死でした。戦時中、勉強や夢を持つことができなかった経験から「若い人たちは、学生でいる間を楽しんでほしい」と語っていました。私はこれから、学べる環境に感謝して、学生生活を楽しみたいです。(中1森美涼)

命の尊さ 伝えたい

 寺前さんが証言活動を始めたのは、原爆被害を知ってもらい、被爆者への差別をなくしたかったからです。今回初めて取材に参加し、寺前さんが大けがを負い、妹も亡くして辛い中、差別を受けて苦しんだことを知りました。伝えることの大切さも学びました。被爆者の話を聞き、原爆の残酷さ、命の尊さを伝えたいです。(中1吉田真結)

(2020年8月3日朝刊掲載)

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