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連載・特集

あの日の記憶 託された願い 8・6式典 都道府県遺族代表の思い

 米国による原爆投下から75年。広島市中区の平和記念公園で6日に営まれる市主催の原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)には、23都道府県の遺族代表各1人が出席を予定する。遺族の高齢化が進み、平均年齢は68.5歳。最高齢は89歳、最年少は43歳。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、参列者は過去最少となった。23人と、感染防止を考慮して直前に出席を諦めた3人に、託されたあの日の記憶、平和への思いを聞いた。

骨になって戻ってきた父。原爆に私の人生は変えられた

戸島夏子(62)=北海道
 父藤田光雄、19年6月12日、97歳、肺炎

 徴兵された父は北海道北見市から呉市の旧日本海軍に配属された。救援物資を持ち込んで入市被爆した。広島に再び足を踏み入れることはなかった。つらい思いをした場所には行きたくなかったのか、当時の惨状も話してはくれなかった。父の思いを想像しながら、原爆資料館や呉市の戦争遺構を訪れたい。

藤田和矩(74)=青森
 母俊子、46年9月3日、21歳、心不全

 妊娠中だった母は白島九軒町(現中区)で自宅の下敷きに。翌年3月に私を産み、半年後に死去。亡くなる前に「子どもにお小遣いもやれないで…」と悔しそうにこぼしていたと祖母から聞いた。私は幼少時は体が弱く、約10年前に腎臓がんも患ったが、母が乗り越える生命力を与えてくれたと思う。感謝を表したい。

木村緋紗子(83)=宮城
 父山縣貞臣、45年8月9日、42歳、被爆死

 内科医だった父は往診途中に自宅があった堀川町(現中区)付近で被爆し、3日後に息を引き取った。遺体を野原で焼いた母が、薬瓶に父の骨を入れて家に戻ってきた時の悔しさと無念さは今も忘れることができない。原爆に私の人生は変えられた。二度と被爆者をつくらせないため、核兵器廃絶運動を続けたい。

佐藤力美(82)=秋田
 父力、92年7月22日、77歳、誤嚥(ごえん)性肺炎

 暁部隊(旧陸軍船舶司令部)所属だった父は、皆実町(現南区)の兵舎で被爆した。屋内にいたため即死は免れ、柱に挟まった人を引っ張り出すなど人命救助に努めた。新型コロナウイルスの影響で地元の慰霊式は中止になったが、何としても広島の式典に参加したかった。変わらず慰霊の気持ちをささげたい。

鈴木崇文(48)=福島
 義父浅沼賢一、20年1月16日、82歳、前立腺がん

 義父は小学2年で被爆。空襲を避けるためか、家族と離れて寺に避難していた。当時の惨状は語りたがらなかったが、爆風で転んだ母親の歯が全て抜けたり折れたりしたこと、焼け残った家の押し入れで雨風をしのいだ体験は聞かせてくれた。式典には高校1年の次男と行く。義父が生き延びた広島を感じてほしい。

木内恭子(ゆきこ)(84)=埼玉
 母茂木寿子、90年1月20日、88歳、肺炎

 母は、父が勤めていた刑務所の官舎で被爆した。私が中島小の分校から帰り着くと、全身にガラス片を浴び、血だらけだった。戦後は父の郷里の茨城県に移り住み、慣れない農作業に追われた。毎年のように高熱で寝込んでいた。必死に育ててくれた母に「今年も元気に広島に来られたよ」と伝えたい。

鈴木正男(70)=千葉
 父忠義、19年8月29日、95歳、老衰

 漁師だった父は海軍に召集され、宇品で被爆。とっさに桟橋から海に飛び込んだらしい。髪が抜ける後遺症があったと聞いた。戦後は千葉に戻り、漁を続けた。50代から肺や大腸のがんを発症。戦友と広島を訪れる計画を何度か立てたが、実現しなかった。父の分まで原爆犠牲者の冥福を祈りたい。

コロナで参列できない被爆者らの分まで手向ける

湊武(77)=東京
 母シズ子、58年1月8日、48歳、腹膜炎

 母はあの時、2歳7カ月の私を背負い、南段原町(現南区)の自宅玄関を掃除していた。大けがはなかったが、貧血が続き、13年後に亡くなるまで寝たり起きたりの生活だった。優しかった母を苦しめた核兵器は今も存在する。廃絶を目指し、約10年前から証言活動をしている。若い人に原爆の悲惨さを伝えたい。

柴田実智子(78)=神奈川
 妹和子、45年9月2日、0歳、死因不明

 妹は宇品の病院に入院中だった。被爆によるけがはなかったようだが、重傷者が次々に運び込まれ、退院させられた。東雲町(現南区)の自宅に戻った翌月に亡くなった。自宅の柱に壊れたガラスが突き刺さった光景も忘れられない。広島に投下された原爆をはるかにしのぐ威力の核兵器が今も世界に存在するのが怖い。

石山昭夫(79)=新潟
 父勇一郎、84年5月22日、77歳、食道がん

 市の職員だった父は、段原日出町(現南区)の官舎から出勤中だった。けがは軽かったが、数年後に白血病を発症。戦後は母と私を連れ、故郷の新潟に戻り、回復後も原爆の話はしたがらなかった。私も、足腰が衰えないうちにもう一度、広島を訪れたかった。戦争は絶対いけない。参列者と心を一つに祈りたい。

角田主枝(きみえ)(51)=石川
 祖母小林ウメノ、01年12月8日、87歳、老衰

 出産を秋に控えていた祖母は、吉島本町(現中区)の自宅で夫や義理の両親とともに被爆した。半壊した自宅の下敷きになったが、幸い無傷。戦後は定年まで平和記念公園の清掃をした。式典では全国の遺族を代表して献花する。新型コロナの影響で参列できない被爆者や遺族の思いも込めて手向けたい。

岩越照茂(58)=岐阜
 父健二、18年1月13日、94歳、心不全

 学生時代に軍に召集され、岡山県に駐留していた父は原爆投下の翌日、広島に入った。負傷者の救護を命じられ、遺体の処理もしたそうだが、詳しく語らなかった。核兵器を利用し、自国の力を誇示し合う最近の核保有国の動きに危機感が募る。被爆国の日本には、力強く平和を訴える義務を果たしてほしい。

大和忠雄(80)=静岡
 母綾子、07年3月28日、87歳、膵臓(すいぞう)がん

 母と私たち家族が住む庚午北町(現西区)に来ていた親戚の子は、5日に中区堺町の本川沿いにあった自宅に帰り、原爆で亡くなった。私たちも半年前までその近くに住んでいた。母は、偶然が生死を分けた無情さを嘆いた。被爆後に逃げてきた女性2人が自宅で亡くなり、公園で遺体を焼いた光景が忘れられない。

水野秋恵(79)=愛知
 父恩田明一、56年8月23日、44歳、肺結核

 海軍の軍人だった父は、水主町(現中区)で被爆した私や弟を捜しに呉市から入市した。体験をあまり話さなかったが、50年に「社会に忘れられてしまうのが口惜しい」とノートに書き残した。核兵器廃絶へ共に活動してきた弟が昨年死去。2人に廃絶を報告できるまで続ける。政府の姿勢にもどかしさがある。

「水を…」 叫び声が耳から離れないと語っていた

中村典子(62)=滋賀
 父雪治喜、07年8月17日、80歳、肺炎

 旧陸軍の暁部隊にいた父はあの日、広島女子商業学校(現広島翔洋高)にいた。爆風を吸って肺を痛め、何度も血を吐きながらけが人を救護した。「水をくれ」と叫ぶ人の声が耳から離れないと語り、毎年式典に参列して手を合わせていた。私も子や孫に、父や水を求めて亡くなった人たちの思いを伝え続けていく。

益田恵美子(55)=京都
 母照子、19年10月13日、86歳、肝細胞がん

 母は自宅の庭で閃光(せんこう)を目にし、とっさに弟をかばって塀の陰に隠れた。右足にやけどの跡が残っていたが「体験した者じゃないと分からない」と、あの日のことは語らなかった。日本が平和なのは、母のような被爆者を二度と出さない反省があるから。母のことを後世に伝えていかなければならない。

森容香(80)=大阪
 母立浪ハツエ、89年2月26日、78歳、胃がん

 私は5歳の時、楠木町(現西区)の自宅で被爆。母ときょうだいの計6人で暮らしていた。助けてと叫ぶ人、川に顔を突っ込んだまま亡くなった人の姿が忘れられない。母も被爆後、ずっと体調が悪く、兄は45歳で死んだ。戦争を恨んでいる。式典に参列する為政者は、被爆者のメッセージを受け取ってほしい。

山本裕治(65)=兵庫
 母充子、20年2月20日、89歳、誤嚥(ごえん)性肺炎

 「この時期は嫌や」。夏が来ると、母は憂鬱(ゆううつ)そうな顔をした。舟入町(現中区)で被爆した母の体験を詳しく聞いたことはないが、生き残ったことに罪悪感があったようだ。聞いておけばよかったとの思いはある。式典に参列するのは初めて。舟入町や被爆建物を訪ね、悲劇をどう継承するべきか、考えたい。

母の体験 差別を受けないよう私には口外を禁じた

岡田康志(63)=奈良
 母園江、19年11月26日、91歳、胆のうがん

 母は玉音放送があった翌日の16日、学徒動員先の呉から故郷の大田市に列車で帰る途中、入市被爆した。学校の証明で被爆者健康手帳が交付されたが、原爆投下の1カ月後に広島入りした病気がちの父には交付されず、胸を痛めていた。初盆を前に、式典では原爆で亡くなった多くの人たちとともに母を弔いたい。

中尾元(62)=和歌山
 父宗夫、17年12月7日、92歳、肺炎

 父は呉の旧海軍に所属し、原爆投下の2時間後に松原町(現南区)へ救護活動に入った。当時のことを語らない人だったが、35年ほど前に旧友と集まった時、初めて口を開いた。遺体の山から手がぶら下がり、足がはみ出た光景はあまりに異様で悲惨だったという。戦時中に父が過ごした呉を回り、慰霊したい。

島根真由子(62)=島根
 父松本正巳、19年8月14日、88歳、腎不全

 父は舟入本町(現中区)の日本発送電(現中国電力)中国支店の技能者養成所の宿舎で被爆した。建物の下敷きになったが、何とかはい出し、数日かけて安来市の実家に戻った。80歳を超えてから島根県被爆者協議会安来支部の会長になり、小学校で体験の継承にも努めた。式典への参加が父の供養になればと思う。

小川弘子(62)=岡山
 義父久雄、19年4月19日、90歳、膵臓(すいぞう)がん

 父は宇品町(現南区)にあった広島逓信講習所の寮への帰途で被爆したという。腰をやけどし、1週間ほどして列車で地元の総社市に戻った。8月6日が近づくと「頭が痛い」「めまいがする」と体調を崩して寝込んだ。一度は果たしたいと願っていた広島訪問はかなわなかった。次女と訪れ、父の分も思いをはせたい。

橋川朱実(72)=広島
 母ちえみ、11年4月16日、93歳、老衰

 母の額と太ももにはけがの痕があった。鶴見町(現中区)で建物疎開中に被爆し、ガラスの破片が刺さった。「皮膚が焼けただれた人を数え切れないほど見た」と語ってくれた。介護福祉士の私も勤め先で被爆の傷痕のある人を見てきたが、最近は機会が減った。私たちの世代が語り継ぐ思いを新たにしたい。

小比賀順子(60)=香川
 母洋子、20年3月31日、88歳、急性循環不全

 母は、衛生兵だった叔父に会うため、山口県へ行った帰りに被爆した。己斐駅で列車を降ろされ、広島市内を歩いた。どうやって帰宅したか覚えていなかった。体験を語ったが、差別を恐れて私には口外を禁じた。「キョウチクトウがたくさん咲いていた」。母が見た光景を思いながら、式典に参列したい。

岡本教義(89)=愛媛
 妹稲垣美智恵、18年11月16日、84歳、脳梗塞

 当時、家族で金屋町(現南区)に住んでいた。私は金輪島で被爆者を救護し、1週間後に自宅へ。幼い妹や弟をどう食わせるか、そればかりを考え、家族で互いに当時の話をすることはなかった。妹の状況を詳しくは知らないが、もっと話しておけば。75年も平和な国はない。今後も続くようしっかり祈りたい。

堅田輝明(43)=高知
 祖父勇喜、19年10月28日、91歳、窒息死

 旧国鉄の整備士だった祖父は、原爆によるがれきの撤去やレール改修などの復興支援のため広島入りし、被爆した。明るく優しい性格だったが、当時のことを尋ねると表情は険しくなり、多くは語らなかった。つらい経験だったのだろう。祖父が改修に携わったレールが今も残っているなら、その場所を訪れたい。

 青森、千葉、香川県の遺族代表は欠席。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。

(2020年8月5日朝刊掲載)

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