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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <15> 「ヒロシマ遺文」

サイト開設 世界に発信

  ≪サイト「ヒロシマ遺文」を2018年開設し、原爆資料を発信する≫

 今、保存か解体かで注目されている旧広島陸軍被服支廠(ししょう)について、県が「保存・活用方策懇話会」を1992年に設けたことは、忘れられたようですね。軍都の歩みや、原爆にとどまらず呉・福山空襲の実態も伝える「近・現代史資料館」を委員として提案しました。広島市は県や国に保存を言うが、基町(中区)にあった被服倉庫は78年に取り壊した。

 被爆建物の保存を巡っては、どこまで残すかの議論になりがちですが、土地に刻まれた記憶を残し語り伝える視点が必要です。

 ヒロシマを未来においても知る、考える、議論の前提となる資料を整理して残せばいい。そう思って「ヒロシマ遺文」を始めました。被爆体験を巡る一般的な事項はネット上のフリー百科事典にも載っています。しかし、重要な役割を担った、また私が謦咳(けいがい)に接した人の多くは出てこないか、あっても内容は乏しい。

 若い研究者らがヒントをつかむことも願っています。例えば、米国立スミソニアン航空宇宙博物館が企画して95年に実現できなかった原爆展については、その2年前に訪れた館長らと意見を交わした折の日誌を織り込み、スミソニアン側と広島市双方の動きを年表形式で詳しく記し、関連文献も紹介しています。

 資料を詰めた段ボール箱を書庫で下ろし上げするのは正直しんどい。でも、読むのは楽しく、見落としてきたことに気付き発見もあります。

 被爆者・原水禁運動に尽くした森滝市郎さん、県歴史教育者協議会の会長も務めた横山英さん…。53年にできた「平和と学問を守る大学人の会」をはじめ、独自で豊かな活動を展開した団体は、200は超えています。平和教育を推し進めた川島孝郎さんが残した言葉は強烈です。「広島でやるべきなのは平和教育ではない、原爆教育なんだ」

 海外には日本語が堪能な研究者は少なくない。世界に向けて発信しているつもりです。いずれ誰かが活用すると信じています。=おわり(この連載は西本雅実が担当しました)

(2020年8月5日朝刊掲載)

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