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連載・特集

被爆75年 幸子さんの手紙 <中> 

亡き母にやっと会えた

 75年前に被爆死した母の手紙に接したのは、つい2年前のこと。当時7歳だった河野蓉子さん(82)=広島市安佐南区=は、少しずつゆっくり読み進めてきた。原爆は広島市大手町(現中区)で、31歳の母、横山幸子(さちこ)さんの命を奪った。その少し前、母が学童疎開中の兄豊さん=当時(10)=に送った手紙には、幼い蓉子さんの姿も描かれる。母との遠い思い出を少しずつたぐり寄せる。(山下美波、林淳一郎)

長女 河野蓉子さん(82)=広島市安佐南区

焼け跡に遺骨 忘れるしかなかった

 この手紙を初めて読んだときは、一人でぼろぼろ泣きました。私は覚えていないけど、ああ母(幸子)はこうだったんだ、私はこうだったんだって。記憶から消えていたものが、よみがえった気がしました。

 北斗七星を母と見たことは覚えていません。被爆死した父と母がどんな人だったのか、記憶にないんです。私は7歳で小さかったので。

 実家は大手町2丁目(現中区)にあった「わかさや足袋本舗」です。戦争が激しくなって、夜だけ両親と離れ、祖父母たちと一緒に旧大芝町(現西区)の疎開先で寝泊まりしていたんです。8月5日は午前中に大手町へ行き、両親に会いました。夜は「きょうは大芝行きたくなーい」って泣いたんです。母に「お帰りなさい」と言われてね。しぶしぶ大芝へ戻りました。

 6日、両親は大手町で、私は大芝の家で勉強しているときに被爆したんです。私は爆風で飛ばされて机の下にすぽっと入り、けがをしませんでした。

 母の遺骨を見つけたのは、原爆投下から1週間後でした。焼け跡を手で触ると「ガサッ」としてね。  涙は出なかったですね。帰ってこなかったから。もう駄目、死んだんだろうなって。諦めというか。涙が枯れたんだと思うんですよ。周りにいっぱい親戚がいましたし。でも、夜に、布団の中で泣くときは時々ありました。

 戦後すぐ「母に会いたい」と頰をつねったことがありますが痛くて、いないのが現実なんだと思いました。母のことは、しばらくは覚えていたでしょうけど、だんだん忘れていきました。生きることに精いっぱいですからね。忙しすぎて。気分が沈む暇がなかった。

 でも、親友から最近、電話で教えてもらったんです。小学4年の頃、学校でアメリカの団体から鉛筆か何かもらったときに「こんなものもらうより、お父ちゃんとお母ちゃんが生きとった方がいい」って言ったって。

 手紙の北斗七星のところ、覚えていないんですけどね、母は兄の心細さを思っていたんでしょうね。私は母といるから、なんかあったら一緒にという覚悟はあったでしょうけど、兄は1人残ったらと心配していたはずです。

人柄に触れた 朗らかでおちゃめ

 手紙の全部に、母を感じます。記憶がないですから、思い出すというより母に触れたっていう感じがしました。母に会えたような気がしましたから。うれしかったですね。

 ずっと、その日その日が精いっぱいで考える暇がなかったですが、年を取ってから「お父ちゃんとお母ちゃんに会いたい」「甘えたい」という気持ちが強くなってきました。なので、手紙に巡り会えて、願いがかなったんです。

 母の人柄も分かりました。朗らかで、手紙も面白い。おちゃめだったんだとびっくりしました。兄を寂しがらせないようにね、わざと面白おかしく書いたんだろうと。笑わせるような言葉で兄を励ましていたんじゃないですかね。

 私の姿も分かってきた。おちゃめは私もおちゃめですね。そこは母からもらったのかもしれません。いつも母にひっついていたみたいですね。覚えていないんですが、まあ、甘えん坊だったんでしょうね。戦後もお兄ちゃんに付きまとっていましたから。

 8月6日が近づくと毎年、だんだん気分が落ち込みます。でも、母の手紙を読むうち、ショックで忘れていたものが思い出されて。なんか満たされたというか、安心したというか。今は気持ちが楽なんです。

(2020年8月6日朝刊掲載)

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