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[備後の戦後75年] 負の遺産 平和誓う場に 向島の捕虜収容所跡

プレートは和解の象徴

 赤れんが壁とのこぎり屋根が特徴的だった、尾道市向島町の捕虜収容所跡。解体されスーパーとドラッグストアになった敷地の隅に、2基のプレートが並ぶ。収容中に亡くなった英国兵23人、米国兵1人の名がそれぞれ刻まれている。

 特に英国兵は、東南アジアからの輸送船で劣悪な衛生環境に置かれ、収容時にはひどく衰弱。病気や栄養失調で次々命を落としたとされる。収容所周辺の住民たちは、彼らの生活を垣間見ていた。

 「監視役の日本兵と一緒に、うちへ配給を受けに来ていたと母親から聞いた。わしも一度、毛むくじゃらで背の高い兵士を見たよ」。老舗パン店「住田製パン所」を一家で営む住田哲博さん(78)は、幼少期の記憶をたぐり寄せる。

 その住田さんは昨年から、向島中央小4年の平和学習での証言活動を引き受けている。プレート前に児童を集め、収容所の存在や太平洋戦争との関わりを伝える。

 同小は、平和学習の題材に捕虜収容所を設定。通学路にあるプレートを調べることから始め、捕虜の境遇を徐々に知り、原爆が落とされた背景も学ぶ。総合学習の約30こまを使い、児童はまだ教科書で習っていない戦争に触れていく。

 6月、プレート前で住田さんが話した際、児童から「なぜここに(プレートが)あるの」と素朴な問いが出た。学年主任の福嶋麻衣教諭(26)は「子どもたちは地域に潜む戦争の側面に初めて触れる。捕虜の苦しみやその背景に思い至れるよう、『なぜ』を問うことを促したい」と話す。

 プレートができたのは、1990年代に活発になった元英国兵捕虜の訪日交流がきっかけだ。向島にも元捕虜が訪れた。住民たち有志が慰霊の機運を高め、設置運動に奔走。2002年、元収容所の紡績工場外壁にプレートを設けた。

 元捕虜のガイドを務め、有志の中核にいた小林晧志さん(80)=福山市新市町=は「彼らの日本に対する憎しみを克服する点でも、設置は大きな意義があった」と振り返る。米国兵の死亡もその後明らかに。工場の解体に伴いプレートを移設した13年、米国兵のプレートも左隣に掲げた。

 しかし元捕虜の死去などで交流は減り、有志の活動は近年停滞している。戦時中の記憶を語れる住民もいなくなった。有志の熱意を間近に見てきた住田さんは「プレートが残っても、そこに込められた歴史や意志が風化してはいけない」と危機感を抱く。

 住田さんの父は、連合軍の攻撃を受けフィリピン沖で戦死している。自身も原爆投下に怒り、反核運動に取り組み続けてきた。

 そんな積年の思いも、米国兵プレートの除幕式に参加し、米軍岩国基地(岩国市)の司令官と握手を交わす中で、解きほぐれるような感覚を抱いたという。「プレートは、かつての敵同士が心を分かち合い、未来を目指した象徴」。だからこそまず過去を直視することが大切だと、次世代に伝えていく。(田中謙太郎)

向島の捕虜収容所
 向島紡績の工場を転用し、1942年11月に設置。同月にインドネシアから英国兵100人が、44年9月にフィリピンから米国兵116人が捕虜として収容され、日立造船向島工場で労働を強いられた。建物は戦後再び工場となったが2011年に閉鎖、翌12年解体された。

(2020年8月6日朝刊掲載)

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