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ピース・シーズ

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第42号) 福島から避難した若者たち

古里への思い抱き前へ

 東日本大震災が発生した6年前を覚えていますか。2011年3月11日、最大震度7の地震(じしん)と巨大(きょだい)な津波(つなみ)が列島を襲(おそ)いました。福島県では東京電力福島第1原発事故を引き起こしました。震災によって、今なお約12万3千人が自宅に帰れていません。

 10代の時に福島県から広島県へ移ってきた若者がいます。放射線への不安があったり、進学がきっかけになったりと理由はさまざまですが、古里への思いを心に留め、今の自分と向き合う姿がありました。

 中国新聞ジュニアライターはそんな若者に会い、体験に耳を傾(かたむ)けました。当初は不安を抱(いだ)いていても、「友だち」という貴重な存在が彼らを支えてくれたそうです。周囲も特別扱(あつか)いせず、1人の若者として普通(ふつう)に受け入れる気持ちが求められます。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学1年から高校3年までの30人が、自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

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新たな友が心の支えに

新妻実旺さん(17)=広島市安佐南区

 青空の広がった11日。原爆ドーム(広島市中区)の対岸であった震災犠牲者を悼む集いに、高陽東高(安佐北区)2年の新妻実旺(みお)さん(17)は、母のり子さん(50)と初めて参加しました。震災1年後に、いわき市から避難。あの日を思い出すのはつらくても、記憶を伝えようと心に決めて臨みました。

 震度6弱の揺(ゆ)れに襲われたのは小学5年の時。教室で帰りの会をしていました。全員机の下にもぐり、収まるのを待ったそうです。迎(むか)えにきた母と帰ると、テレビには津波の映像が。ぼうぜんとしました。翌日爆発(ばくはつ)した福島第1原発が、いわき市郊外の自宅から約45キロにあることも、知りませんでした。

 広島市への避難は放射線の影響を心配する母の提案でした。母の知人の助けを得て、小学校を卒業してから移りました。「そんな遠くまで行くの」という地元の友人の言葉に、さみしさが募(つの)ったと振(ふ)り返ります。

 新たな友だちが心の支えに。学校でしゃべり、笑い合うのが楽しく「広島に来て良かった」と言います。このまま住み続けることにしましたが、震災の記憶が薄れていく気配には危機感もあります。「原発事故はもう起こしてほしくない」と望みます。目標は保育士になること。小さな子にも体験を話していくつもりです。(高2山本菜々穂、中2川岸言織)

「戻りたい」気持ち今も

笹島大祐さん(16)=尾道市

 「俺は出ねえぞ」。震災から約1年後、郡山市の小学5年だった笹島大祐さん(16)は転校する同級生に伝えました。自分はここにいるからいつでも戻(もど)っておいで、という意味を込(こ)めて。小学校卒業時に家族と尾道市へ移りましたが、古里が好きな気持ちは変わりません。

 自宅で震災に遭(あ)いました。家の中は食器などが散乱し水道はストップ。翌日、水をもらいに父と市内の公園へ。約5時間並んでやっと家に帰った時、母から「原発が爆発した」と聞きました。なじみのない言葉に最初は意味が分かりませんでした。

 4月中旬に再開した学校へは放射線の影響を避けるため、暑くなっても長袖(そで)と長ズボン、マスク姿で登校。校内に放射線測定器や除染作業で出た土を入れた袋(ふくろ)などが増えていきます。それとともに友人は去っていきました。

 尾道では支援(しえん)する市民に迎えられました。今は岡山県内の高校に通う1年生です。古い町並みにも慣れ、近所の猫とじゃれ合うのが楽しみです。「当時としては福島県から出るのは仕方なかったと思う。ただ戻りたい気持ちもある」。複雑な思いがにじんでいました。(中3溝上藍、中1森本柚衣)

部活に全力 ここが居場所

渡辺夏帆さん(17)=広島市中区

 友人にきちんと別れを告げられず後悔(こうかい)する気持ちを、前向きにさせてくれたのはソフトボールでした。広島女学院高(広島市中区)2年の渡辺夏帆さん(17)は震災2日後に郡山市から避難。幼なじみを今も気に掛(か)けますが、前を見据(す)え、部活仲間と励みます。

 地震は小学5年だった自分を不安にさせました。金魚の水槽(すいそう)の水は飛び散り、怖(こわ)くて涙(なみだ)が止まりませんでした。避難した時は母に連れられ飛行機でまず名古屋へ。自分は空港に降りた時、原発事故のニュースを初めて知りました。新幹線に乗り換(か)え、岩国市の母の実家に1年間身を寄せた後、中学入学の時に広島へ引っ越しました。

 別れたままの友人に会いたくてたまらず、いら立ちを母にぶつけたことも。授業に出られない時期もありました。そんな自分を部活の顧問(こもん)の先生や仲間は、練習に誘(さそ)ってくれました。中学2年の秋、スタメンに。居場所を見つけました。

 今は「自分にできることをやろう」と医師を目指します。震災後、郡山で亡くなった医師の祖父と祖母に将来を見せたいと願っているからです。「友人も2倍になり良いこともあった」と笑みをこぼします。(高3中原維新、写真も)

ハワイ移民の生き方 励み

鈴木一成さん(20)=広島市安佐南区

 広島経済大(広島市安佐南区)2年の鈴木一成さん(20)は仲間と協力し、ハワイの日系人たちと広島の若者が交流するプロジェクトを進めています。移民の歴史を学び、「異郷でたくましく生きた人々に勇気づけられた」と力を込めます。自身も2年前、福島県西会津町から移ってきました。

 中学2年で起きた震災で大きな被害はありませんでした。ただ3年の秋、震災の影響で母の仕事の先行きが不透明(ふとうめい)になり、母が古里の広島へ双子(ふたご)の姉、妹と帰りました。鈴木さんは父と地元に残りました。震災でいつ何があるか分からないと知り、身近な友だちと一緒にいる時間を大切にしたかったからでした。

 その父を病気で亡くし、大学進学を機に広島へ。原発事故の影響に対する偏った見方も感じました。放射線量の高い一部の地域の数値だけで、福島県全体が汚染されているように見られているのでは―。「被災地から来たというだけで『かわいそう』と見られがち。被爆から復興した広島の人だからこそ励(はげ)ますよう接してほしい」と願います。(高1松崎成穂)

事情それぞれ 周囲は理解を

ひろしま避難者の会アスチカ 三浦代表

 福島県から移ってきた子どもたちに、周囲はどう接すればいいのでしょう。震災や原発事故で避難した人たちでつくる「ひろしま避難者の会アスチカ」(広島市西区)の三浦綾代表(44)に聞きました。

 子どもは、葛藤(かっとう)しながら県外に出ることを決めた親に従い付いてきています。震災から6年たつ今、子どもは新たな友達や学校にも慣れ、進学や卒業といった次の目標に向かっています。子どもの良いところは親や環境に関係なく、自由に交友関係を広げられることです。

 ただ、何げない一言で傷つくことも。例えば「いつまでいるの」「いつ福島に帰るの」という質問です。子どもが「ここにいちゃいけないのかな」「早く戻った方が良いのかな」と不安に感じる場合があります。各自がさまざまな事情を抱え避難していることを、周囲は理解しておいてほしいです。(高1岩田央)

福島第1原発事故と被災者
 2011年3月11日の巨大津波で全電源喪失(そうしつ)に陥(おちい)り、原子炉建屋が水素爆発して放射性物質が拡散した。1986年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故と同じ「レベル7」という最悪の事故の処理は困難な作業が長期にわたって続く。避難した福島の住民は6年たった今も、県の内外で約8万人。各地で子どものいじめも表面化している。事故現場周辺の4町村で避難指示が今春、解除されるが、復興と生活再建はいまだ遠い。中国地方にも2月末時点で福島から避難した約660人が市町村に届け出ている。福島県が自主避難者への住宅無償(むしょう)提供を今月で打ち切るため古里に戻るか、避難を続けるのか重い決断を迫(せま)られた人も多い。

(2017年3月16日朝刊掲載)

【編集後記】

 渡辺さんに取材をしている時、「自分だったらどのように感じるだろうか」と想像することがありました。未曾有の大震災、急な転居、友人との別れ…。きっと立ち直れないくらい悲しみ、途方に暮れたと思います。彼女はクラブ活動に自分の存在意義を見出しました。僕の存在意義はどこにあるのだろう、と考えました。震災を乗り越え、今を楽しむ彼女を取材して、軸のしっかりした、地に足のついた人になりたい。そう思いました。(中原)

 東日本大震災を経験した同じ年齢の学生に直接、震災について取材したことで、切実に防災の必要性を感じました。私は家族と非常時にはどこへ避難するかを確認し合いました。今回の記事を通して、被災した学生の「忘れないで」という声が、たくさんの人の行動に結びついてほしいです。(山本)

 僕が東日本大震災をテーマに取材するのは2回目です。前回と同じく、アスチカの三浦さんに会いました。三浦さんの話によると、震災直後は車のガソリンが抜かれたり、軽自動車のタイヤだけが盗まれたり、空き巣の被害が増えたりしたそうです。その話を聞いて、僕は以前取材した被爆者の体験を思い出しました。原爆投下後の広島でも、物が盗まれる被害が発生したそうです。普段の生活を脅かすような状況に直面すると、人はなりふり構わない行動に走ってしまうのかと、怖く思いました。自分はそんな状況になっても、助け合える人間になりたいです(岩田)

 私はこれまで、東日本大震災を経験し、他の都道府県へ移り住んだ人たちを、一様に「県外避難者」と括って見てしまっていました。しかし取材を終え、人々の思い、そして避難先での暮らし方は多様であるということに気づかされました。私が話を聞いた鈴木一成さんが広島に移り住んだのは、被災だけが理由ではありませんでした。しかし、広島で、福島から来たことで冷やかしを受けるのではないかと、最初は不安も大きかったそうです。

 今も私の心に響いているのが、「避難してきた人々に対して、『頑張れ』と励ましてほしい」という鈴木さんの言葉です。私たちの周りにいる、震災を経験した人々、直接経験していなくても、震災でつらい思いをした人々は、様々な思いを持って広島へ来ているはずです。私たちは、そのような人々の気持ちに寄り添いながら、ともに支えあって生活していこうとする姿勢を見せる必要があるのではないかと感じました。(松崎)

 私は今まで東日本大震災や、原発事故について体験を聞く機会がありませんでした。今回聞いて改めて知らないことだらけだったなと感じます。避難してきた人はこんなにつらい思いをしているのかと、驚きました。避難してきた人の思いを理解することが一番大切なことだと感じます。(溝上)

 新妻さんは「震災の記憶が薄れている。自然災害の恐ろしさを忘れないでほしい」と話してくれました。将来は保育士を目指し、小さな子どもたちにも震災のことを伝えていくそうです。原爆ドームを見た新妻さんは、福島にも原爆ドームのように何か形として残すことはできないかと感じていました。私たちが話を聞いて、記事として伝えていくことも新妻さんの思いを形にする一つの方法ではないかと思いました。(川岸)

 笹島さんに「自分にとっての古里はどこですか」と聞いたら、「福島です」という答えが返ってきました。広島で生まれ育った自分が、もし広島で震災を経験し、他の土地に移っていたとしても、「広島が古里」と答えたかなと思います。古里への愛着は変わらないのだと感じました。小さな時から住んでいる場所は、大切な存在になります。東日本大震災についての取材は、今回が初めてでした。私の周りで災害が起きても、笹島さんの「焦らず冷静に」という言葉を思い出し、行動したいです。(森本)

 もう6年がたったのかと思うと、胸が詰まる。山口勤務だった2011年3月11日は、山口県警の記者クラブにいた。午後3時ごろからある人事異動の発表に備え、ソファでテレビを見るともなしに見ていた。そうすると、国会の予算審議を中継していた画面の中が揺れ出した。「これはやばい」。すぐに速報のテロップが流れ、「震源は三陸沖」の文字に驚いた。東京でこの揺れなら、東北はどうなってるんだ―。 県警本部内は被災地に向けた応援隊の出発で慌ただしくなり、私たちも現地にいる人、東日本から帰ってくる人への取材が始まった。

 「原発が爆破したの?どうなるの?」。翌日夜、仙台市内に避難した親しかった人と電話が通じた。相手は情報が少なく、混乱に陥っていた。「落ち着いて」と声を掛けるしかすべがなく、今思えば、無責任だったかと心が痛む。仲間の外国人留学生たちは夜、大使館の用意したバスで宮城県外に出たらしい。取り残されていく自分の行く先が不安だったに違いない。

 今回は、福島第1原発事故をへて、福島から広島に移ってきた高校生と大学生を取材した。保護者を含めて、「当時、何を信じたらいいか分からなかった」という声をよく聞いた。ノートに書き取っていると、あの夜聞いた電話口の悲痛な声が思い出された。どの情報が正しく、自分がどう行動すればいいか分からない状況。報道に携わる者として、そんな時どうやって何を伝えるべきか、考える機会をもらった。「報道が事実を隠している」という高校生の声にも出合った。真しに受け止めたい。

 本紙でも、10代で震災を経験し避難した若者の声を、これだけまとめて掲載するのは初めてではないか。取材することで彼らの心を傷付けはしないかと、当初は心配だったが、一人一人があの日からの事実に向き合い、話そうとしてくれた。6年の月日は短いようだが、彼らの話を聞いていると、とても長く、そして何より成長を感じた。ジュニアライターも同世代の言葉を、しっかり刻もうとしていた。広島から東北は遠いが、身近にも経験した人がいる。そんな人たちから、震災と原発事故の記憶や苦しさ、あすへのバネを学んだようだ。取材に協力して頂いた「ひろしま避難者の会アスチカ」の三浦綾さん、佐々木紀子さん、そして体験を話してくれた皆さんと保護者の方々、本当にありがとうございました。貴重な取材になったと感謝しています。(編集部・山本祐司)