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ピース・シーズ

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種 第46号 ヒロシマ救援の特攻部隊

 太平洋戦争中、江田島で訓練していた時に原爆が投下され、広島市内へ救援(きゅうえん)に向かった部隊があります。「陸軍船舶(せんぱく)練習部第十教育隊」。「海上挺進(ていしん)戦隊」とも呼ばれ、船に載(の)せた爆雷(ばくらい)もろとも敵艦へ突っ込み、本土に上陸しようとする相手の船を沈(しず)めるための特攻(とっこう)部隊でした。

 命をささげようとした隊員の運命を変えたのは、原爆投下でした。訓練は中止になり、被爆直後の街中に入りけが人の救護と、遺体の運搬(うんぱん)に当たります。終戦を迎え命を取り留めますが、焼け野原で見た光景は、今なお隊員の脳裏(のうり)に焼き付いています。

 かつて基地があった江田島北部の幸(こう)ノ浦(うら)には慰霊碑が立っています。きれいな海を挟(はさ)み、広島の対岸に1967年に建った碑は、戦闘(せんとう)に参加した2288人のうち1636人が亡くなったと刻みます。救援に加わった隊員には戦後、放射線の影響に苦しむ人もいました。特攻と被爆直後の救援活動という二重の困難を経験した生存者から、証言を聞きました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学1年から高校3年までの27人が、自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

紙面イメージはこちら

死を覚悟の10代 焼け野原に衝撃

元隊員 和田功さん

家がごうごう燃え 街が消えた

遺体積み重ね…あまりに悲惨

 広島市中区で理髪(りはつ)店を営んでいた和田功さん(91)は海上挺進戦隊の元隊員です。当時は「鉄砲(てっぽう)の弾(たま)に撃(う)たれるよりも船で突撃(とつげき)して死んだ方が男らしい」と自らの役目に誇(ほこ)りを感じていましたが、原爆投下直後の市街地で信じられない光景を目にします。老いた今「戦争は殺し合い。やってはいけない」と口を開きます。

 陸軍に志願後、挺進戦隊に入ったのは1945年2月。香川県の小豆島で、全国から集まった若者と銃(じゅう)の使い方や船の操縦方法など基礎(きそ)的な指導を受けました。7月に江田島・幸ノ浦の基地に移り、訓練を始めました。燃料がなく沖に止まった船を敵に見立て、ベニヤ板で造った船で向かい、爆雷を落とす練習です。

 船は大きい波を受けるとひっくり返る上、海水につかった部分は腐(くさ)りやすい構造。「骨組みの上を歩かないと壊れやすく、手入れが欠かせなかった」と振り返ります。同じ兵舎にいた隊員約千人のほとんどは、20歳未満の青少年。訓練の厳しさに夜中に泣きだす年下もいました。

 8月6日、19歳だった和田さんは朝食後に兵舎の中で休憩(きゅうけい)していました。突然(とつぜん)「ドーン、バリバリ」という大きな音が響(ひび)き、建物が揺(ゆ)れました。急いで外に出ると、広島市上空にきのこ雲がもくもくと上がり、地面から火事による煙(けむり)が湧(わ)いているように見えました。

 その日、予定されていた訓練は中止。部隊は順番に船で、江田島から市内へと救援に出動しました。和田さんは午後2時ごろ、宇品港から市内に入ります。部隊の救援本部が臨時に置かれた広島電鉄本社(現中区)へ徒歩で向かいました。

 道の両脇の家々がごうごうと燃え、真ん中を歩いて火の粉をよけます。御幸橋に立った時、驚(おどろ)きました。街がなくなり己斐まで見通せたからです。むしろと棒で即席(そくせき)の担架(たんか)をこしらえ、けが人を移しました。夜は路地に横になりましたが、気が動転し眠(ねむ)れなかったそうです。

 7日、遺体をトラックの荷台に上げる作業などをして、8日は元安川近くで遺体を焼く任務をしました。材木の上に遺体を並べ、また材木を載せて遺体を積み重ね…。あまりの悲惨(ひさん)さに、どんな爆弾が落とされたのか見当がつきません。「兵隊さん、水をください」という負傷者にも多く出会います。「どうせ死ぬのなら」と水を飲ませたと明かします。

 12日まで救援し、江田島に。仲間は髪(かみ)の毛が抜(ぬ)けたり、歯茎(はぐき)から血が出たりしましたが、和田さんは1週間、下痢(げり)をした程度で治まりました。出撃(しゅつげき)しないまま戦争が終わり「ほっとした」と本音をのぞかせますが、心中は複雑でした。「もう半年戦争が続いていたら自分も死んでいただろう」

 今の若者には楽しく自由に生活できる大切さを知ってほしいと訴(うった)えます。焼け野原で見た多くの人の死を思い出し、「核兵器は人類の破滅(はめつ)につながる」。被爆72年を迎える夏を前に、そう力を込めました。(高2松崎成穂、高1川岸言統、中3目黒美貴)

知られざる「マルレ」隊

船で敵に体当たり 戦跡研究の奥本剛さん

 海上挺進戦隊は戦局が悪化する1944年に生まれました。フェリーの船長で、地元の戦跡(せんせき)を研究する奥本剛さん(45)=江田島市=に聞くと、十分でない設備で戦いに向かった実態が分かります。

 志願した主に10代後半の船舶特別幹部候補生が配属され、「四式肉薄(にくはく)連絡艇」(略称「マルレ」)と呼ぶ船で訓練しました。敵を攻(せ)めるのではなく、相手の攻撃をできるだけ抑(おさ)える「水際部隊」です。100人規模の戦隊が53隊つくられ、小豆島や江田島で訓練を受けた後、当時日本領だったフィリピンや、沖縄、九州などに配備されました。

 夜間にマルレに乗って出撃(しゅつげき)。敵の船に近づき、爆雷と呼ぶ火薬兵器を落とします。爆発する7秒後までに急転回して引き返します。敵の船体に穴を開けるか骨組みを壊(こわ)して沈(しず)めるのが目的でしたが、船に身を守る銃の装備も屋根もなく、機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を受けたらそのまま浴びてしまいます。操縦技術も難しく、最終的には隊員が船ごと敵に体当たりする部隊になりました。

 量産できるよう構造は簡単でした。長さ5・6メートル、幅1・8メートルの船体はケヤキ材の骨組みに、厚さ4~6ミリの防水したベニヤ板を張(は)り合わせただけ。エンジンは自動車用のため水に弱く、よく止まりました。後部にある250キロの爆雷はワイヤで留めただけです。

 挺進戦隊の記録を探し、本も出版した奥本さんは「亡くなった隊員の命と原爆投下後に救援した事実は歴史の陰に埋もれがち。多くの人に知ってもらいたい」と話します。(中2平松帆乃香)

全国から集い 健康に被害も 被爆史に詳しい宇吹暁さん

 原爆投下直後の広島の救援には宇品にあった陸軍船舶司令部の下にある「暁(あかつき)部隊」が投入され、海上挺進戦隊もその一つでした。軍隊の救援はどのような影響(えいきょう)があったのでしょう。被爆史と広島の戦後史に詳しい宇吹暁さん(70)=呉市=に聞きました。

 広島は他と違(ちが)い、軍隊が関わったのが特徴(とくちょう)です。けが人の救護と同時に重要だったのが、遺体の片付け。衛生問題と国民の戦意喪失(そうしつ)を防ぐ目的がありました。「広島原爆戦災誌」によると、原爆投下から2週間後までに軍隊が処理した遺体は全体の36%に上ります。

 広島城近くの部隊が壊滅(かいめつ)したため、被害の少ない周辺部の暁部隊が大きな役割を果たしました。全国から集った隊員は救援後、古里に戻(もど)ります。被爆者健康手帳を申請する時に必要な証人捜(さが)しが困難でしたが、日本各地で結成された戦友会が役立ちました。

 海上挺進戦隊は多くが10代後半で被爆。白血球数が減少するなど被害を受けた隊員もいます。宇吹さんは「自らが『爆弾』となり死を覚悟(かくご)した青少年が人命救助に携(たずさ)わったことはとても重い」と話すと同時に、「若くして放射線の影響を受ける状況に追い込んだ社会の責任は大きい」と指摘します。(高1鬼頭里歩)

(2017年7月20日朝刊掲載)

【編集後記】

 今回の取材で初めて、和田さんの所属していた陸軍海上挺進隊について知りました。私たちと同じ世代の若者が厳しい訓練に励んでいたこと、そして、小さくもろい船で敵艦に突撃し、多くの命が若くして失われたことに、胸が苦しくなりました。また、当時、船で突撃して死ぬことを「男子の本懐」と考えていたという和田さんの言葉を聞いて、「国のために戦おう」という風潮の中生きた若者たちのことを思い、切なく感じました。(松崎)

 今回、初めて電話取材をしたのですが、相手の表情が見えないので、難しい面もありました。ただ、取材した宇吹先生の「被爆の被害と、今もある現代の問題をつなげて考えるとわかりやすいのでは」という一言が印象的でした。今後も、頑張って取材します。(鬼頭)

 実際に江田島に行って、和田さんを取材しました。和田さんが話してくれた8月6日の記憶は、想像を絶するものでした。山に上って、広島市内を見ながら被爆体験を聞いた時、大きなきのこ雲が見えたような気がしました。被爆体験を次の世代に広く伝えていき、今のような平和な世界を保持できるよう努めていきたいです。(川岸)

 和田さんは「あの頃は、特攻で潔く死ぬのが当然とされていた時代だった」と話していました。戦争のない現代に生きる私にとっては、考えにくいことですが、多くの人がそれを疑わずにいたことは恐ろしく思います。そんな時代が再び来ないようにするためにも、「戦争を繰り返してはいけない」と声を上げることが大切だと実感しました。(目黒)

 私は奥本さんにインタビューしました。私は、海上挺進隊の存在を、今までまったく知りませんでしたが、挺進隊の背景やマルレの構造を知るにつれ、戦争のむなしさを感じました。原爆の被害にしっかり向き合っていきながら、歴史の「影」となっているたくさんの出来事にも、目を向けていかなければならないと強く感じました。(平松)