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ヒロシマ・ナガサキ ZERO PROJECT

若者と問う未来と平和 ヒロシマ・ナガサキ ZEROプロジェクト 10月29日スタート

 被爆地から平和を発信する新たな試み「ヒロシマ・ナガサキ ZERO PROJECT(ゼロプロジェクト)」が10月29日にスタートする。広島国際文化財団が協賛し、支援する。核兵器廃絶の願いを軸としながら平和の意味を環境や人権など多角的に捉え直し、被爆75年の2020年まで世界に伝えていく。企画した米国のNPO法人「1Future(ワン・フューチャー)」代表のアーティスト、キャノン・ハーシーさん(40)らが7月末に広島入りし、発表した。被爆翌年の惨状を描いたルポ「ヒロシマ」を著した祖父ジョン・ハーシーの思いを継ぐ営みだ。(桑島美帆、金崎由美、岩崎誠)

元国防長官と対話 アート制作も

 「ZERO PROJECT」いう名称には文字通り、ゼロから復興を遂げた平和都市への敬意が込められている。10月29日に広島市内で開く平和イベントがキックオフとなる。

 クリントン政権で国防長官などを務め、2007年には「核兵器のない世界」の理念をオバマ前大統領に先立って提唱した米国4賢人の一人、ウィリアム・ペリーさん(89)を招くのが目を引く。「人権」「環境」「コミュニティー」「イノベーション」が四つの大きなテーマ。地元広島をはじめ多くの若い世代に参加を促し、未来の平和のために何ができるか自分の問題として考え、問いかけることが狙いとなる。

 発表された計画によると当日のイベントはオープニングセッションから。戦争と平和についての作品も数多いイラストレーターの黒田征太郎さん(78)を交え、大きなキャンパスに参加者が子どもたちと平和への願いを込めた絵を描く。

 続いて四つの分科会に分かれた対話セッションがあり、ペリーさんはここに参加して被爆者や若者らと交流する予定だ。核兵器廃絶への被爆地の変わらぬ思いを踏まえ、さまざまな視点で平和構築に向けた知恵を出し合いたいという。

 具体的には若い世代への核を巡る記憶の継承、広島の被爆樹木を守るプロジェクトなどを踏まえた自然・環境面の平和の実現、足元の地域コミュニティーの再生、里山・里海のありようも含めた持続可能な平和な社会への変革などについて意見交換する見通しだ。

 こうした議論を受け、若者たちのグループが中心となって音楽、ビデオアートなどを含むアート制作にかかり、同日夜のライブコンサートで発表する運びだ。成果はインターネットを通じて世界に発信する。

 プロジェクトの母体「1Future」はニューヨークを拠点に芸術活動を続けるキャノン・ハーシーさんが米国で設立した。被爆70年を機に広島で手がけ、日米などの若者たちがプロのアーティストとともに絵画、映像、写真、音楽などを制作したワークショップの成果を踏まえた団体だ。

 その活動の輪は米国でも広がっている。キャノンさんらは4月末、ニューヨークを舞台に「NOT YET FREE(まだ自由ではない)」と題するイベントを開催し、日本からミュージシャンの佐野元春さんが参加した。トランプ大統領就任とともに超大国で再び頭をもたげる人種偏見への抗議の声も聞かれた。

 広島のプロジェクトは、こうした流れの上にも位置付けられる。来年以降も教育、メディア、文化という三つの柱のプログラムを通じ、ゴールの2020年に向けて発信を続ける。

祖父が被爆地ルポ 思い継ぎ企画 キャノン・ハーシーさんに聞く

復興の知恵を世界に

  ―なぜプロジェクトを企画したのですか。
 被爆70年の2015年に祖父の足跡をたどるNHKのドキュメンタリーの撮影で初めて広島市を訪れた。祖父が書いた「ヒロシマ」に出てくる遺族の被爆者や関係者に会う中で、私は自分のできる範囲で彼の仕事を引き継ぐ責任や義務があると感じた。それまでは本を通してしか広島を知らなかった。しかし実際に広島に滞在し、さまざまな人と出会う中で、悲惨な歴史だけでなく、最も非人道的な出来事から再生した希望の町ということを実感した。若者を巻き込み、対話やアートを通し、広島からより良き未来を築きたい。

  ―一度限りのイベントではなく長く続けるのは。
 逆境に立ち向かい、復興した広島には、素晴らしい知恵がある。単年のイベントではなく、被爆75年で東京五輪も開かれる2020年まで続けたい。ウェブサイトでも随時発信し、最終的には世界の10億人に思いが到達するプロジェクトにしたい。

  ―原点には、やはり祖父ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」があるのですね。
 12歳か13歳の時に祖母に勧められ、一気に読んだ。「ヒロシマ」は自分に関係する話だと感じた。登場する牧師のタニモトさんや医師のササキさんは、たまたま歴史的に悲惨な体験をしたが、米国の人たちの身近にもいたかもしれない人として描かれている。祖父は被爆者を身近な人として描く才能があった。

  ―生前、広島の取材の話をよくしていましたか。
 ヒロシマについて直接、話した記憶はない。私の父とも話していないようだ。おそらく原爆投下から9カ月後に広島で見た光景は彼にとってトラウマとなったのだろう。(米国内での)政治的なプレッシャーもあったのかもしれない。

  ―このプロジェクトで祖父の思いを継ぐ意味とは。戦後は公民権運動など黒人の人権問題も追ったジャーナリストでした。
 祖父に幼い頃から「人は人として尊重せよ」と教わった。人種や国籍、偏見を超えて、人を判断するべきだと。今私たちは、地球を破壊するまで戦える武器を持っている。そして世界のリーダーシップが崩壊し、人種差別がまたも渦巻いている。そんな世界を救おうと思うなら互いを尊敬し、グローバルな家族として捉える必要がある。世界的な名を残した祖父と私の生き方は異なるが、「世界中の人々は同じ」という祖父の考えは私の考えの根底にあり、今回のプロジェクトに大きく影響している。

 77年米ニューヨーク生まれ。米ヴァッサー大卒。主にシルクスクリーンや写真の現代アートを制作し、ヨハネスブルグ、サンパウロ、広島など各地で個展を開催。15年11月にアートと教育を結びつけるNPO法人「1Future」を設立。ニューヨーク在住。

午前8時半~10時 子どもたちとともに絵を描くセッション(中区の袋町小)
10時半~12時半 人権・環境・コミュニティー・イノベーションの対話セッシ          ョン(中区の妙慶院)
午後2~6時 ワークショップ、アート制作(妙慶院)
7~9時 ライブコンサート&展覧会(平和記念公園の元安川親水テラス)

惨禍を伝え空前の反響 「ヒロシマ」とジョン・ハーシー

 原爆投下から1年後の1946年夏、ルポ「ヒロシマ」を掲載した雑誌「ニューヨーカー」は計30万部を瞬く間に売り切った。冷静かつ人間的な視点で原爆被害を世界に問い、空前の反響を巻き起こした。

 ジョン・ハーシーが広島を取材したのは雑誌発売の3カ月前だ。キリスト教関係者の人づてに丹念な聞き取りを重ねた。広島流川教会の谷本清牧師、3人の子を持つ中村初代さん、広島赤十字病院の佐々木輝文医師ら計6人の体験を通して「きのこ雲」の下で起こったことを再現している。

 多くの負傷者であふれた泉邸(現在の縮景園)や、病院内の惨状。例えばうみまみれの負傷者を担いだ際の手の感触など、その描写は詳細を極める。放射線の急性症状に苦しむ人たちを伝える一方、避難した人たちにも軽妙な会話があるなど等身大の姿もある。

 登場する外国人神父らが原爆投下の「倫理性」について論じ合っていたことも紹介する。まさに核兵器禁止条約制定の背景となった核の非人道性の議論を先取りする視点といえる。

 ハーシーに取材を持ちかけたニューヨーカー編集者の決断で他の記事全てを休載した特集号としたこともあり、「ヒロシマ」は大きなインパクトを与えた。当時、米国は原爆の威力の詳細調査を行う一方、悲惨さを知らしめる情報は統制していた。

 被爆40年の85年にハーシーは広島を再訪し、自ら描いた6人の戦後の人生を追う。続編「ヒロシマ その後」を発表し、中国新聞紙上に日本語訳も掲載した。

 小説家でもあった。ピュリツァー賞を受けたのは大戦中の44年、イタリア戦線の取材経験から著した小説だった。戦後はイエール大で教壇にも立ち、ベトナム反戦運動で声を上げた。93年に78歳で死去する。「ヒロシマ」は今なお「20世紀ジャーナリズム作品の最高峰」として折りに触れ再評価されている。

(2017年8月14日朝刊掲載)