「非核の世紀」―原爆の日
 広島核サミットを開こう

'00/8/7

 まだ明け切らない午前五時。久しぶりで訪れた「原爆の日」の広 島市・平和記念公園は、原爆慰霊碑や供養塔前で「ヒロシマの祈 り」が始まっていた。原爆犠牲者の肉親や縁者、市民の列は途切れ ない。だれも疑念なく故人を弔い、核兵器のない平和な世界を願 う。その厳粛で、真しな人々の思いの中にたたずむと、どんな権力 者であれ、テロリストであれ、「核の悲劇」を肯定したり、再使用 をもくろむとは考えられない。

 世紀最後の「原爆の日」だ。今世紀は同時代に生きた人間として 恥辱の世紀だった。「戦争の百年」であり、人類の殺戮(さつり く)に科学の最先端技術が利用され、広島、長崎に地上の地獄を出 現させた「核の世紀」だった。人類を核の脅威から解放できないま ま、ツケを新しい世紀に持ち越す。米国は包括的核実験禁止条約 (CTBT)の批准を上院で拒んだ。米ロは臨界前核実験を重ね、 新型核兵器の開発の可能性も報じられた。インド、パキスタンも核 実験し、核保有国の仲間入りをしようとしている。

 科学技術は本来、人類の生存と生の全うやその豊かさのために利 用すべきなのに、核に関してはまだその哲学を見いだせていない。 沖縄サミットではせっかくの広島、長崎市の原爆展を各国首脳は見 向きもしなかった。核開発をしておいて、自らのヒトという種の存 在を脅かされる現状は科学の発展に追いつかぬ人の良心、倫理の敗 北である。

 しかし、核兵器という巨人に立ち向かう努力の積み重ねが核の第 三の悲劇を阻止したのも事実である。朝鮮戦争、キューバ危機な ど、いく度か地球は核兵器使用の危機に遭ったが、核保有国を思い 止どまらせた裏に、人類最初の被爆地ヒロシマ、ナガサキの被爆事 実そのものの訴求力、被爆者とそれに連なる内外の人々の絶えざる 訴えがあったことは疑う余地がない。

 種が自らの種を絶滅に追い込むのは生物界で珍しいと言われる。 共食いはまず、しないのだ。ヒトは放置すれば、絶滅の道を選びか ねない業な遺伝子を持っている。その愚かさを自覚したい。その意 味で秋葉忠利広島市長が平和宣言で提唱した「科学技術と人類の和 解」に共感する。広島は「人間的目的に科学技術を活用するモデル 都市として再出発」し、国際的な場面で「和解の場を創(つく)出 す調停役としての役割を果たす都市」を目指すという。

 具体案にもっと踏み込んでほしかったが、長崎平和宣言の骨子で も核保有国に「核兵器全面禁止条約の交渉に入ること」を求めてい る。両者の志向するものを踏まえ、新千年紀元年の「原爆の日」に は広島に「核保有国首脳会議(サミット)」を招請し、核廃絶を協 議することを提案したい。「国際的な調停役」にふさわしい役回り ではないか。二年、五年先の実現でもいい。外務省はもとより、広 島市の主導する「世界平和連帯都市会議」も活用できる。核保有国 の政治に影響力を持つ学者や文化人、宗教家らあらゆるチャンネル を総動員して大統領や首相を動かす手立てを皆で考えよう。


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