中国新聞社

2000・4・25

被曝と人間 第4部 源流 1950年代
〔1〕軍事転用への不安

原子力研究に賛否

  ●被爆学者激しく抵抗

 ■白熱した学術会議

 「原爆を受けた者として米国とソ連の緊張が解けるまで、いや世界中がこぞって平和的な目的に使うことがはっきり定まらぬうちは、日本は絶対に原子力を研究してはいけない」

 連合国軍による占領が終わった一九五二年の十月。「学者の国会」と呼ばれる日本学術会議の総会が東京で開かれていた。二日目の論議は、原子力利用についての検討委員会をつくるなど、政府に何らかの申し入れをしようとの提案をめぐって白熱。被爆者の三村剛昂(よしたか)広島大教授(故人)=物理学=が、提案に真っ向から反対する意見を展開した。

 第二次世界大戦の敗北から七年。朝鮮戦争が続いており、米ソがにらみ合っていた。原子力の利用を始めたら、いずれは軍事利用につながってしまう、との不安は根強かった。

4月25日
1952年10月の日本学術会議総会で議論された原子力 利用に関する政府への申し入れ提案書

 ■首筋にやけどの跡

 三村教授の首筋には原爆によるやけどの跡。時間制限なしという異例の発言が認められ、「声涙ともに下る」と評された熱弁をふるった。

 提案者の一人で、後に学術会議会長を務めた伏見康治氏(90)=物理学=は「連合国軍は日本の大学や研究所にあったサイクロトロン(原子核の実験用加速器)を海に捨てるなど、原子力研究を禁止した。自由な研究再開は科学者の悲願だった」と当時の状況を説明する。しかも、「石油をいかに確保するかが、太平洋戦争の発端にあった。原子力でエネルギー供給の見通しが立てば、戦争の恐れは少なくなると考えていた」と振り返る。

 三村教授の発言は流れをつくった。総会でさらに続ける。「原爆を受けて約二カ月、負傷して寝ていた経験があり、その惨状をよく知っているので、反対せざるを得ない。原子力の研究は一度間違うと、すぐ原爆につながる。それでは日本の文明が乗り遅れると言うが、それでもいいと思う」

 この時の様子を、伏見氏は「被爆者として非常にまじめな意見だった。聞いていて、これはとても提案が受け入れられないと思った」。その日に提案は取り下げられ、学術会議として原子力利用をどう考えるか、委員会を設けて検討することになった。

 伏見氏は、提案が支持されなかった理由を「被爆国という要素が大きかった。もし三村さんが被爆者でなければ、全く同じ演説をしても与える印象は全然違っただろう」と回想する。

 ■慎重な意見が大勢

 被爆国の立場にこだわっていても、三村教授とは正反対の意見もあった。例えば、物理学者の武谷三男氏(故人)の「日本人は世界唯一の原爆被害者だから、原子力に関する限り、最も強力な発言の資格があり、平和的研究を行う権利がある」との主張だ。核兵器の否定は共通するが、原子力の平和利用については賛否が分かれていた。

 それでも当時は「原子力は核兵器と非常に強く結び付いていて切り離しがたい」との考えが有力だった。学術会議でも、原子力研究に慎重な意見が大勢を占めたまま、議論が続けられる。それが、思わぬ形で大きな方向転換を迫られるのは、総会から一年半後の五四年三月だった。その直前に第五福竜丸のビキニ被災が起きる。

 【注】三村教授の発言は、中央公論社発行の科学雑誌「自然」53年1月号の記事から抜粋。


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