中国新聞
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第一部 南米編
 6 へき地一人
 体験語り寂しさ封じ 「あの日」弔うお経

2002/07/07
 サンパウロ市から南西へ車を飛ばして五時間。行けども行けども 畑や牧草地の緑が広がる。やっとたどり着いたカッポンボニート市 の住宅地に、滝野柳市さん(85)が独り暮らしていた。

 ブラジル人は彼を、日本のドイツ人、すなわち「ジャパネーズア レモン」と呼ぶ。

 ▼「直後」に死体処理

 原爆投下直後の広島で死体処理に携わった。以来、全身の色素が 壊れ、肌が白くなったという。

 「移民したはいいが、言葉が分からん。私を見て『お前はジャパ ネーズかアレモンかイタリアーナか』と聞くから、適当に首を振り よったんよ」

 故郷の広島県作木村では色黒だった。「少しでも母国のために役 立ちたい」と一九五四年にブラジルに渡る際には、「あちらは日差 しが強いから、また黒くなるよ」と周囲に言われた。だが今は、ひ ざの裏などに残るだけになった。

 日本から被爆者の健康診断に来る医師は「被爆との因果関係は分 からない」と言う。ブラジルの医師からは「原爆の影響で色素が壊 れているのだ」と言われる。

 五つ年下の妻を三十七年前、四十三歳で亡くした。子どもは十一 人。亡くなったり、日本へ出稼ぎに行ったりで、近くには二男一人 が残る。

 若いころはサンパウロまでのドライブも平気だった。三年前、渡 日治療に招かれ、二十五年ぶりに帰国した。右脚の関節の変形症が ひどい。治療から戻ったが、脚は弱くなった。車の運転をあきらめ た。市外には出られなくなった。

 糖尿病や肝臓障害に効くと聞き、丹精こめて育てている薬草アル カショフラ(アーティチョーク)を、サンパウロ市内の被爆者仲間 たちに届ける楽しみもなくなった。

 「寂しくて寂しくて、いっそ…」

 独りでいると、あの日の光景が頭をよぎる。海軍の兵隊。広島県 南部の海岸にいて、その日のうちに広島市内に入った。県北に生ま れ、移民で渡っただけに、市内の地理はよく分からない。

 しかし、「この世の地獄よ」。地名は忘れても、目に焼きついた 光景は消えない。興奮で声は異常に大きくなる。「死体かと思った らまだ生きとって、さばりつかれた。でも手を持ったら肉がずるっ とむけた。男も女も分からんまま焼かれたよ。むごかった」

 思い出した夜は眠れない。思い出さないで済むためにも人と接 し、寂しさを紛らわしたい。

 ▼僧りょ役もこなす

 だから、色素が抜けてまだらになった身体を、現地の新聞記者や 近所のハイスクールの生徒に遠慮せずに見せる。被爆の体験を語 る。地域の日系人の老人会「寿会」の書記も担当する。

 最近、近所の日系人が亡くなった際「お坊さん」として重宝され ている。ブラジル国内にある本願寺から袈裟(けさ)を譲り受け、 僧りょに変身する。お経を読む。

 知識も経験もないが、人のつながりを自覚できる。「いっぱいの 死体を見すぎた。あの日焼いた人たちを供養したい」。唱えるお経 に、五十七年前の弔いもこもる。

在外被爆者 願いは海を超えて

「死体をいっぱい見すぎた」。現地邦字紙の原爆特集を広げて振り返る滝野さん

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