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遺志を継ぐ (2006.7.31)

 ■がん押し 命懸けの闘い

 体をむしばむ病を「原爆のせいだ」と国に認めてほしい―。老いた原告たちに共通する願いだ。
 「ただそれだけなのにこんなに難しい」。亡夫の西博さんの訴訟を引き継いだ妙子さん(65)が広島市西区の自宅でつぶやく。胃がんで申請して却下され、原告になった博さんは今年四月に亡くなった。七十四歳だった。
 「命懸けで闘ってきた裁判。私が最後までつながないと」。仏壇のそばに並べた遺影に穏やかな視線を送る。文字通り「原爆に翻弄(ほんろう)された」亡き夫の生涯を思う。
 博さんは幼いころ父を亡くし、千田町(現中区)で軍人向けの旅館を営んでいた祖母に育てられた。爆心地から一・六キロ。学徒動員に出掛けようとしたときに被爆した。祖母は結局、見つからず、原爆孤児と呼ばれた。

 ▽ボンベ抱え出廷

「がんの痛みに耐え、命懸けで頑張った」。亡夫の思いを継ぎ、判決を待つ西妙子さん(撮影・高橋洋史)
 妙子さんにも被爆体験を語ろうとはしなかった。戦時中、よく食べていたというまぜご飯を作ると嫌がった。原爆を思い出すというのが理由だった。そんな博さんが提訴に踏み切った。「もう長くない。最後の闘いと察していたのでしょう」と妙子さんは思う。
 昨年春にあった地裁での本人尋問。肺まで侵され、酸素ボンベを抱えて出掛けた。「しんどい思いをして出たのに、国側の尋問はまるで茶番劇だった」。妙子さんはこぼす。「実際の被爆距離は百メートルほど爆心地に近いはず。記憶があいまいなのでは」。長時間の追及からは、原爆と病気の関連を問いただそうという熱意は感じられなかった。
 法廷の外でも、嫌な思いをした。「お金が欲しいんか」「裁判なんかしなくても福祉(生活保護)をもらえばいい」。周囲から言われた。でも思う。「欲しいのは『認定』。お金じゃない」
 妙子さん自身、四歳のとき、父を捜して入市被爆した。廃虚と化したヒロシマを今も覚えている。「六十年以上たっても体をむしばむ原爆の恐ろしさを国に分かってほしい。でないと、また使われそうで怖い」

 ▽募る国への不信

 安芸高田市に住む原告の鳴床輝子さん(77)も、同じ思いだ。「何が起こったのかも分からないまま焼け死んだ人たちのため、原爆被害がどんなものか国に訴えていかなくては」と力を込める。
 広島市田中町(現中区)の病院で母と一歳の妹と被爆した。炎に包まれ、建物の下敷きになった母たちを助けられなかった。今も後悔で胸が締め付けられる。
 法廷で国側から尋問された。「その時は、何時何分でしたか」。不信感が募った。「あの惨状を想像すれば、時計も時間の感覚も吹き飛んでしまうことが分かるはず。それもせず、申請した病気を原爆のせいではないとあっさり否定する」。国の姿勢に納得できない。
 傍らで夫清吉さんの遺影が見守ってくれる。夫婦で一緒に提訴したが、その二カ月後、食道がんで他界した。原爆投下の翌日、広島に入り、死体処理に一カ月携わった清吉さんは生前、病を押して応じてくれた取材で声を振り絞った。「二度とああいう兵器を造っちゃあいけん」
 悩んだ末、夫の訴訟は取り下げた。「同じ気持ちで始めた裁判。私が最後まで闘うことで分かってくれると思う」。判決日の八月四日は、清吉さんの命日でもある。(森田裕美)


61年目の夏 2006ヒロシマ


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