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■がん押し 命懸けの闘い
昨年春にあった地裁での本人尋問。肺まで侵され、酸素ボンベを抱えて出掛けた。「しんどい思いをして出たのに、国側の尋問はまるで茶番劇だった」。妙子さんはこぼす。「実際の被爆距離は百メートルほど爆心地に近いはず。記憶があいまいなのでは」。長時間の追及からは、原爆と病気の関連を問いただそうという熱意は感じられなかった。 法廷の外でも、嫌な思いをした。「お金が欲しいんか」「裁判なんかしなくても福祉(生活保護)をもらえばいい」。周囲から言われた。でも思う。「欲しいのは『認定』。お金じゃない」 妙子さん自身、四歳のとき、父を捜して入市被爆した。廃虚と化したヒロシマを今も覚えている。「六十年以上たっても体をむしばむ原爆の恐ろしさを国に分かってほしい。でないと、また使われそうで怖い」 ▽募る国への不信 安芸高田市に住む原告の鳴床輝子さん(77)も、同じ思いだ。「何が起こったのかも分からないまま焼け死んだ人たちのため、原爆被害がどんなものか国に訴えていかなくては」と力を込める。 広島市田中町(現中区)の病院で母と一歳の妹と被爆した。炎に包まれ、建物の下敷きになった母たちを助けられなかった。今も後悔で胸が締め付けられる。 法廷で国側から尋問された。「その時は、何時何分でしたか」。不信感が募った。「あの惨状を想像すれば、時計も時間の感覚も吹き飛んでしまうことが分かるはず。それもせず、申請した病気を原爆のせいではないとあっさり否定する」。国の姿勢に納得できない。 傍らで夫清吉さんの遺影が見守ってくれる。夫婦で一緒に提訴したが、その二カ月後、食道がんで他界した。原爆投下の翌日、広島に入り、死体処理に一カ月携わった清吉さんは生前、病を押して応じてくれた取材で声を振り絞った。「二度とああいう兵器を造っちゃあいけん」 悩んだ末、夫の訴訟は取り下げた。「同じ気持ちで始めた裁判。私が最後まで闘うことで分かってくれると思う」。判決日の八月四日は、清吉さんの命日でもある。(森田裕美) |
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