「テニアン町スズラン通り」。日本統治時代、島の中心部に通りはあった。菓子店に酒場、映画館…。二十近くの店が軒を連ねるメーンストリート。「柴田商店」は国定教科書から呉服まで何でもそろう雑貨店だった。
「どうなっとるかねえ、店の跡は…」。店の若主人だった大畦正喜(おおうね・まさき)さん(84)=庄原市総領町=はつぶやいた。スズランの街灯がシンボルだったあの通り。芝居小屋から聞こえるラッパの音色。サトウキビ工場の給料日は、大売り出しで活気づいた。町の息づかいは体が覚えている。
妻とは、スズラン通りの北にあった「テニアン神社」で祝言を挙げた。「神社はまだありますかなあ」。大畦さんは目を閉じて記憶をたぐり寄せる。でも―。「えっと行きたいとは思わんです」
昨秋、妻をみとった。病と闘う妻は「しんでえ、しんでえ」と繰り返した。「あの島から生きて帰ってきたじゃないか」。励ます言葉が見つからなくて、そう口にした。思い出さないように生きてきたのに。
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戦場の島で亡くなった恵子ちゃんの位牌を抱く、大畦さん
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▽臨月の妻を連れて
テニアン島に米軍が上陸したのは一九四四年七月二十四日。六月半ばから、テニアン町は激しい爆撃を受けた。空襲と艦砲射撃。大畦さんは妻と母、そして近所の二家族と逃げた。三つの家族で一つ、手りゅう弾を持っていた。追い詰められたら、帯で全員を一くくりにして死のうと。
妻は臨月だった。いつお産があるか分からない。速く走れず足手まといになるからと、途中で二家族と分かれた。六月下旬、民家の軒下で妻は女の子を産んだ。
「娘はねえ、恵子と名付けました」。そう言い、大畦さんは手を眺めた。確かにこの手で抱いた。初めてのわが子を。
娘を抱き、妻と母と四人でやみくもに逃げた。四つ角ごとに死体が重なる。どちらへ進もうか、立ち止まったところに砲弾を受けたらしい。雨のように降る銃弾。逃げては伏せを繰り返した。爆音が響くたび、娘はびくりと震えた。やがてぐったりし、乳を飲まなくなった。
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戦前のスズラン通り(沖縄テニアン会提供)
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▽生後40日の命
娘は腕の中で死んでしまった。わずか四十日の命だった。亡きがらを抱いたまま逃げた。隠れた洞窟(どうくつ)に異臭が漂う。娘を毛布にくるみ、洞窟の外のがけのくぼみに置いた。父ちゃんもすぐに追っていくよと、手を合わせた。
二カ月は、そこにいただろうか。「デテコーイ」と、投降を呼び掛ける米兵の声が聞こえる。飢えよりものどの渇きにもうだめだと思った。死のう。一杯だけ、水を飲んでから―。そう決し、はうように洞窟を出た。
戦闘は終わっていた。米軍兵に捕まり、捕虜になる。島の収容所で終戦を迎えた。四六年二月、引き揚げ船で妻の実家がある広島へ帰り着いた。
「収容所を抜け出して娘の亡きがらを捜したんじゃがね。それが見つからん。わしの代わりにテニアンの土になってしもうた」。大畦さんは、そう言って泣いた。小さな位牌(いはい)をなでた。収容所の中で木片を集めて作った娘の位牌。遺骨も写真も無い。ただ一つ、娘が生きた証し。
手りゅう弾を託して別れた二家族の消息は分からない。島の南にあるがけは「スーサイドクリフ(自決のがけ)」。南へと追いつめられた多くの民間人が、降伏を拒んで絶壁から身を投じた。親が子を抱いて。「小さな子どもはたいてい死んでしもうた。戦争とはいったいなんじゃろうか」
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破壊されたスズラン通りかいわい=1944年7月31日(米国立公文書館蔵、沖縄県文化振興会史料編集室提供)
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▽体験明かせず
テニアンでの体験を、明かせなかった。思い出すのがつらかった。それに―。「この地じゃ言えんです。原爆でようけの人が亡くなっとるのに」
玉砕からほぼ一年後、島からエノラ・ゲイが飛び立った。北の滑走路から、原爆を積んで。(木ノ元陽子)
テニアン島 サイパン島から南に約5キロ。伊豆大島ほどの大きさ。第一次世界大戦の勝利で日本が占領した。昭和初期に製糖工場ができ、サトウキビ産業で潤った。1940年には約1万5000人の日本人が住んでいた。多くは仕事を求めて渡った沖縄県出身者。
第二次世界大戦で地形が平らなことから飛行場適地とされ、旧海軍基地航空部隊の重要基地になる。島は米軍にも軍事的価値を見いだされた。「第二次世界大戦事典」によると「B29爆撃機による日本本土攻撃の航空基地として使用できると考えられたため、米国の戦略目標地となった」。
1944年7月24日、米軍が上陸し、9日間の地上戦の末、玉砕。日本の犠牲者は軍約8000人、民間約3500人。
現在は先住民族チャモロ人を中心に人口約3500人。米自治領。