「原爆の日」前後
2つの原水爆禁止世界大会が閉幕/長崎
元猿楽町民がそれぞれの地でめい福
首相、被爆者団体の要望聞く
原水禁世界大会、ヒロシマアピール採択
韓国人原爆犠牲者慰霊祭、約200人参列
米国の高校生らが碑前祭
原水禁世界大会が開幕
碑文の一部が削られる
被爆電車に乗り当時を追体験
被爆資料の記録・検索台帳が完成
原水協国際会議、海外15カ国参加し開幕
平和大行進が広島に到着
旧猿楽町の死者112人確認
「人影の石」説明板に名前追加
平和誓う「原爆の子の像」碑前祭
反核平和の日リレーがゴールイン
91人原爆死、旧猿楽町の被爆実態が判明
国連軍縮札幌会議、「臨界前」で応酬
旧十日市町の住民、52年ぶりの町内会

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2つの原水爆禁止世界大会が閉幕/長崎

'97/8/10

 長崎市を舞台とする原水禁系、原水協系の二つの原水爆禁止世界 大会は九日、大会宣言やアピールを採択し、閉幕した。

 <原水禁系>「被爆52周年原水爆禁止世界大会・長崎大会」の閉 会総会には約二千八百人が参加。八日の分科会の報告の後、大会実 行委員長の岩松繁俊原水禁議長が「希望を持って核廃絶へ前進し、 世界にヒロシマ、ナガサキ、ビキニの体験を発信しよう」と呼び掛 けた。

 その後、臨界前核実験への反対▽包括的核実験禁止条約(CTB T)発効の促進▽米国、ロシア間の戦略核兵器削減交渉の促進▽核 兵器の「先制使用禁止協定」の締結要求―など今後の取り組みを確 認する大会宣言を採択。閉会後は平和祈念式会場の平和公園まで約 一キロを行進し、「核のない世界の実現」を訴えた。

 <原水協系>「原水爆禁止1997年世界大会・長崎」では、約 七千三百人が閉会総会に集まった。大会実行委運営委員会代表の赤 松宏一原水協事務局長が「大会は核兵器廃絶世論の出発点。日米防 衛協力のための指針(ガイドライン)見直しを中止させ、草の根か ら核保有国を包囲、孤立させよう」と呼び掛けた。

 前日の分科会報告や海外代表の連帯表明では、日米安保体制や臨 界前核実験を強行した米国への批判が相次いだ。最後に、核兵器廃 絶条約の早期締結やあらゆる核実験の禁止、核実験被害地域での国 際的調査などを盛り込んだ「長崎からのよびかけ」を決議した。


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元猿楽町民がそれぞれの地でめい福

'97/8/7

 原爆ドームを残して消えた街、「広島市猿楽(さるがく)町」。 親を、兄弟を、思い出さえも消し去られたゆかりの人たちは六日、 それぞれの地でめい福を祈り、崩れぬ平和を願った。被爆から五十 二年、いやされぬ悲しみが、生き抜いた者たちを貫く。

 <生家そばで>

 広島市西区に住む細野(旧姓松本)澄子さん(68)は、平和祈念式 会場を対岸に見るドーム前で「午前八時十五分」を迎えた。原爆死 没者名簿には、先月二十二日に亡くなった妹道子さん(65)も記載さ れた。「今日まで生きてこれたのがうそのような気がします」

 ドームの東二百メートル足らずの「56―2番地」の自宅から中区舟入川 口町の工場に動員され、被爆した。父房之助さん(46)は終戦の日帰 らぬ人に。やはり動員先で大やけどを負った道子さんを看病し、学 童疎開していた弟と妹を連れに向かった。十六歳の女学生が病死し た母の代わりとなった。

 「妹はやけどを苦に独身を通し、入院したと思ったら三週間後に は…。本当に戦争は私らの代でたくさん」。今、小・中学生三人の 祖母でもある細野さんは「平和の鐘」が鳴り渡ると、こうべをたれ て身じろぎしなかった。

 <遠く離れて>

 テレビから流れる「平和の鐘」に、大阪府枚方市に住む野(旧姓 国松)登美子さん(58)は、トマトを供える仏前に手を合わせた。

 「気持ちの整理がいまだにつかなくて…」と、戦後一度しか郷里 には戻っていない。ギフト店を一緒に営む夫の利夫さん(64)が「毎 年この日が来ると、何事も一人でするしかなかったころが、よみが えるようです」と補った。

 「46―1番地」の自宅で父力蔵さん(46)は爆死。母寿子さん(36) は広島県高田郡の疎開先に見分けがつかないほどの全身やけどで運 ばれ、被爆十一日後に亡くなった。その母が、被爆直後に収容され た広島文理科大で、トマトを隣に寝ていた男児にも渡したのを知 り、夏には欠かさず冷えたトマトを供える。「どんな思いで味わっ たんでしょうか…」

 <一人自宅で>

 徳山市に住む井上(旧姓島本)満子さん(67)は今年は自宅で一 人、祈りをささげた。昨年、夫が病死し、自身も軽い脳梗塞(こう そく)で倒れ、通院が続く。

 「ようも生きてこれた。母のおかげです」。原爆投下前夜、一家 はそれぞれの疎開先から不在だった「26番地」の伯母宅に集まり、 徳三郎さん(41)と能子さん(40)の両親と妹二人、弟が爆死した。

 井上さんは「あの日」、久しぶりの家族水入らずに動員先を休む つもりだった。虫が知らせたのか、母がたしなめ、投下三十分前に 工場に向かい、家族のうちただ一人助かった。「この年になり、よ うやくみんなの死はあきらめがついた。でも、戦争への憎しみは変 わりません」。語気を強め何度も汗をふいた。

【写真説明】(上)原爆ドームだけが残った旧猿楽町で、犠牲者のめい福を祈る細野さん。(下)家族全員が眠る広島へ思いをはせる井上さん(徳山市)


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首相、被爆者団体の要望聞く

'97/8/7

 政府主催の「被爆者代表から要望を聞く会」が六日、広島市中区 のホテルであり、広島県内の被爆者四団体が、橋本龍太郎首相に被 爆者援護法改正などを訴えた。会の運営をめぐり、これまで出席し てきた七団体のうち三団体がボイコットした今回は、初めて質疑応 答を取り入れたが、評価は分かれた。

 二つの県被団協の伊藤サカエ、金子一士両理事長ら四団体の代表 四人は、首相とテーブルを囲み、援護対策の拡充などを求めた。

 首相は、在外被爆者援護で「援護法に国籍条項はなく、日本に来 てもらえれば、どの国の人にも対応できる」と強調。「(援護法 は)一般戦災者と異なる特殊な健康被害対策と考えている」と述 べ、国家補償の精神に基づく援護法への改正には否定的な見解を繰 り返した。

 約十分間の質疑では「被爆者は金銭ではなく、国の償いを求めて いる」との声も出たが、首相は「政府は、核兵器を廃絶する努力を 続けている」と応じ、かみ合わなかった。

 「要望を聞く会」は一九七六(昭和五十一)年に始まり、今年、 三団体が「セレモニー化している」と初めて欠席した。首相は批判 に配慮して、官僚が準備した答弁書に頼らなかったが、前向きな回 答は示さずじまい。ただ、韓国人原爆犠牲者慰霊碑への参拝要請に は、「機会を見て、お参りしたい」と答えた。

 運営の変更について、伊藤理事長は「首相の率直な考えを聞け た。首相との窓口は大事にしたい」。一方、金子理事長は「質疑応 答は前進だが、首相は核心部分の答弁を避け、誠意を感じなかっ た」と不満を隠さなかった。

 首相は同日の記者会見で「一部の方の欠席は残念」としながら も、来年以降も開催する考えを強調した。


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原水禁世界大会、ヒロシマアピール採択

'97/8/6

 原水禁系の被爆52周年原水爆禁止世界大会・広島大会は六日、広 島市中区の県民文化センターでまとめの集会を開き、非核三原則を 明記した非核法の制定などを求めるヒロシマアピールを採択した。

 集会には約五百人が参加。原水禁の宮崎安男副議長が「世界と自 国の政府に、非核の意思をはっきり示す出発点にしよう」とあいさ つ。この後、ヒバクシャ・フォーラムなど十の討論会、分科会の報 告があった。ヒバクシャ・フォーラムの報告では「核問題を人類の 問題としてとらえ、世界のヒバクシャと連帯しよう」と強調され た。

 最後に、非核法の制定のほか▽北東アジアの非核地帯化▽臨界前 核実験などすべての核実験の中止▽核兵器禁止条約の締結▽プルト ニウム利用政策の転換―などを訴えるヒロシマアピールを採択し た。

 原水協系の原水爆禁止1997年世界大会は同日午後、中区の広 島グリーンアリーナで広島大会を開く。

 両大会とも七日から会場を長崎市に移し、討議を続ける。


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韓国人原爆犠牲者慰霊祭、約200人参列

'97/8/5

 韓国人原爆犠牲者の慰霊祭が五日、広島市中区の平和記念公園対 岸にある慰霊碑前で営まれた。在日本大韓民国民団広島県地方本部 の主催で、遺族ら約二百人が参列した。慰霊祭は二十八回目。

 新たに二十九人を書き加えた計二千二百四十二人の死没者名簿を 慰霊碑に奉納した後、参列者全員で黙とうをささげた。民団県本部 の朴義鍾団長は追悼の辞で、「厳しい民族差別と限界を超える重労 働の末、多くの同胞が死んでいった。その中での無情このうえない 原爆の惨禍は、韓国人被爆者の悲惨さを一層際立たせた。二重三重 の苦しみのうちに死んでいったことを永遠に忘れることなく、後世 に伝える」と誓った。

 この後、これまで、慰霊祭で二十三年間、自作の詩を朗読してき た大阪府枚方市の詩人、詩川しぐれさん(67)が、「ヒロシマからソ ウルへ」と題し、「恨みもあるでしょうが、無念さもあるでしょう が、どうか目を閉じて下さい」と新作をささげた。

【写真説明】遺族らが民族衣装に身を包み歌をささげる韓国人原爆犠牲者の慰霊祭


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米国の高校生らが碑前祭

'97/8/5

 子供たちの原爆かわら発掘のシンボルとして建立された「原爆犠 牲ヒロシマの碑」(広島市中区大手町二丁目)の碑前祭が五日朝、 しめやかに営まれた。全国から参加した児童・生徒や米国の高校生 ら約二百人が、被爆体験の継承へ決意を新たにした。

 午前八時十五分、全員で黙とうをささげた後、児童・生徒を代表 して広島市立基町高校二年池田沙織さん(17)ら三人が「一人ひとり が、おもいやりを持てばどんな差別もなくなるはず。平和実現のた めに努力します」と誓いの言葉を述べた。

 この後、米国の日米文化センターが派遣したカルフォルニア、マ サチューセッツ州らボストン、ワシントンなどの高校生十一人を先 頭に、全国の子供たちが碑に折りづるをささげた。

 碑は一九八二(昭和五十七)年八月五日、元安川で取り組んだ原 爆かわらの発掘・保存運動の象徴として建立された。

【写真説明】「原爆犠牲ヒロシマの碑」に折りづるをささげる米国の高校生たち


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原水禁世界大会が開幕

'97/8/5

 原水禁系の被爆52周年原水爆禁止世界大会・広島大会は四日、開 幕した。原水協系の原水爆禁止1997年世界大会は同日、国際会 議の二日目に入った。いずれも六日まで広島市を会場に「核兵器の ない世界」を目指して討議する。

 <原水禁系>中区の広島グリーンアリーナであった広島大会の開 会総会には、約三千人が参加。「反核・非核で一致するすべての人 々との共同行動を」との大会基調が紹介された後、東京など一都六 県の子供たちが、平和を祈るアピールを次々に読み上げた。

 続いて、原水禁のメンバーである社民党の土井たか子党首や、公 明、新社会、自民、民主の各党の代表があいさつ。米国元上院議員 のアラン・クランストン氏ら六カ国十人の海外代表も紹介された。 また、広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長は「国内外を問わ ず、すべての被爆者の救援を」と訴えた。

 <原水協系>中区の広島厚生年金会館で全体会議を続け「被爆・ 核実験被害」について八人が特別報告に立った。米国ネバダ核実験 場の風下のユタ州セント・ジョージ市に住んでいたデニス・ネルソ ン氏は、父母と妹をがんで失った体験を話し「核兵器がなくなる日 まで、声を上げ続けなければならない」と訴えた。大会実行委運営 委員会の河井智康代表は、この六月にマーシャル諸島で行った核実 験被害の調査結果を発表した。

 午後の分科会では、(1)核兵器廃絶(2)核戦略や軍事基地、軍事同盟 (3)核被害の調査・連帯―に分かれて議論を深めた。


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碑文の一部が削られる

'97/8/4

 「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の碑文の一部が削られて いるのを四日朝、慰霊祭に参列した教職員らが見つけた。関係者は 「8・6を前になぜ」と憤慨している。

 削られたのは、ブロンズ像の台座に記されている歌人正田篠枝さ んの短歌の一部。ブロンズ製の凸版で「太き骨は先生ならむ」の 「太」の部分が「大」になっていた。

 台座の「太き」という表記については、一九七一(昭和四十六) 年の碑建立当時、一部の歌人から「大き」だという反論が起きてい た。全国被爆教職員の会の石田明会長は「経緯に詳しい人の手によ るものではないか。碑の字を勝手に削るのは言語道断」と、広島中 央署へ届け出た。

 被爆した女性教師が教え子を抱いている「教師と子どもの碑」 は、広島国際会議場南側の緑地帯にあり、高さ三・六メートル。短歌は、 六五年に亡くなった正田さんの歌集「さんげ」から抜粋した。

【写真説明】「太」が「大」に削られた碑文(白線内)


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被爆電車に乗り当時を追体験/広島市

'97/8/4

 原爆忌を目前に控えた四日、広島市内で現在も活躍する被爆電車 に乗って、当時を追体験する「被爆体験を聞く会」(広島平和教育 研究所など主催)があった。広島県内の児童、生徒と保護者合わせ て約百二十人が参加した。

 参加者は、現存する広島電鉄の被爆電車四両のうち二両に分乗し て、広島市中区の中電前電停を出発し、広島駅、己斐駅の間をそれ ぞれ往復した。

 己斐駅コースでは、原爆投下直前に己斐から宇品まで乗車した広 島平和教育研究所副議長の空辰男さん(69)が同乗。四十万都市だっ た当時の広島の様子を紹介しながら、「たった一発の爆弾で、街が 壊滅してしまった」と原爆の脅威を訴えた。

 真剣な表情で体験談に聞き入っていた可部南小六年、馬場徹君 (12)=安佐北区可部東二丁目=は、「ものすごい爆風が来たことを 知って驚いた。被爆電車に乗って、これまで勉強した平和学習のお さらいになりました」と話していた。被爆体験を聞く会は、今年で 七回目。

【写真説明】被爆電車に乗り、入市被爆した空辰男さん㊧の体験談に耳を傾ける小学生たち(4日午前9時50分、広島市中区大手町2丁目)


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被爆資料の記録・検索台帳が完成

'97/8/4

 五十二年目の8・6を前に、広島市の原爆資料館が永久保存する 約一万二千点に及ぶ全被爆資料の記録・検索台帳が三日、完成し た。三年がかりで、一点ごとに分類番号を付け、写真を添えた検索 カードを作成した。これまで眠っていた被爆資料がぐんと活用しや すくなる。

 資料の総数は一万千八百三十七点。かわら、タイル、墓石などの 「金属・石類」が最も多く約七千点、陶器やガラス食器などの「台 所用品」が約九百点、上着やベルトなどの「衣類」が約五百五十 点、米軍の計測機器や落下傘(さん)も六点ずつあった。

 検索台帳は、これらを「家庭用品」「衣類」「文書類」など十項 目に分類。「家庭用品」の項目では、さらに「家具」「楽器」など 二十八の細目に分け、検索カードにそれぞれの写真を添付し、分類 番号、寄贈者の氏名と連絡先、被爆時の状況などの説明文を書き込 んだ。

 同時に、地下一階にある三つの収蔵庫に、被爆資料を項目別に整 理して収納し、台帳を見れば即座に取り出せる保管システムもつく った。

 今後は、コンピューターに入力し、被爆資料の検索システムづく りを目指す。同資料館の叶真幹主幹は「保存機能がようやく整い、 膨大な資料を永久保存しながら、活用できる体制ができた。原爆展 や企画展などに即座に対応していきたい」と話している。

 市民らが寄贈した被爆資料は、原爆資料館館が改装された九四年 までは、保管庫が手狭だったため、市庁舎の倉庫に分散管理し、索 引づくりは手付かずの状態だった。このため、被爆五十周年の九五 年から専任の学芸員二人を配して整理・分類作業を進めてきた。

【写真説明】検索カードを手に、被爆資料をチェックする原爆資料館職員


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原水協国際会議、海外15カ国参加し開幕

'97/8/4

 「核兵器のない21世紀へ」を共通テーマに、原水協系の原水爆禁 止1997年世界大会・国際会議が三日、広島市中区の広島国際会 議場で始まった。三日間討議し、六日に世界大会を開く。七日から は長崎市に会場を移す。

 十五カ国の海外代表四十八人を含む約二百八十人が参加。主催者 を代表し、関屋綾子元日本YWCA会長が「核兵器廃絶の交渉開始 を求める国連決議をはじめ、国際世論は廃絶へ確かな流れとなって いる」とあいさつし、全体会議に入った。

 非政府組織(NGO)軍縮委員会のバーノン・ニコラス会長は、 包括的核実験禁止条約(CTBT)の採択以後の核軍縮は、手詰ま り状態であると説明し、「核保有国指導者がとらわれている核抑止 論を捨てさせる役目はNGOにある」と強調。核軍縮の流れや軍事 基地について、八人が報告した。


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平和大行進が広島に到着

'97/8/4

 核兵器廃絶などを訴えて、全国各地から広島を目指して歩いた、 平和団体などによる平和行進の一行が三日、相次いで広島市入りし た。

 富山市、東京、和歌山市からの三コースでリレーしてきた原水協 系の国民平和大行進は、約七百人が正午過ぎ、中区の平和記念公園 に到着した。

 公園前での集会で、原水禁世界大会広島実行委員会の藤田厚吉代 表委員が「行進の成果を生かし、核兵器のない二十一世紀をつくろ う」とあいさつした。

 原水禁系の原水禁世界大会実行委員会による非核・平和行進の一 行約六百人も午後三時、平和記念公園に到着。広島県原水禁の中垣 八郎代表委員を先頭に、原爆慰霊碑に黙とうをささげ、行進を締め くくった。青森市を起点に二コースに分かれ全国を歩き継いだ。

 日本山妙法寺の平和祈念行脚の五十人も午後、平和記念公園に到 着。韓国人被爆者慰霊碑なども回った。

【写真説明】平和公園に到着した原水禁系の非核・平和行進の参加者


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旧猿楽町の死者112人確認

'97/8/2

 原爆ドームを残して消えた街、「広島市猿楽(さるがく)町」ゆ かりの人たちが二日、五十二年ぶりに集い、合同慰霊法要を開く。 それを前に、元住民たちと中国新聞社による被災記録の掘り起こし で、一九四五年末までに確認できた住民関係の死者は百十二人に上 り、五十四世帯に生存者がいることが分かった。

 原爆投下前の猿楽町の復元戸別概略図と、四五年末までの住民九 十一人と翌年一人の詳しい死没記録が中国新聞の二十三日付紙面で 報じられ、ゆかりの人たちでつくる「矢倉会」(益本嘉六会長)な どに関係者から百件を超す連絡が入った。

 追跡調査の結果、新たに九世帯、二十一人が四五年末までに、一 人が翌年に被爆の急性障害で亡くなっていたのが確認され、うち二 十人がその日に爆死していたことが分かった。爆死者は、これまで を含めて九十六人。新たに判明した爆死者の多くは自宅や、勤務先 で被爆していた。

 今回判明した死没者の遺族は被爆後、都内や愛知、山口、福岡県 などに移り住んでいた。「広島での体験が遠くなったように感じて いたが、ゆかりの人たちの力で街をよみがえらせようという動きを 知り、感無量です」と、市も初出と認める貴重な写真を探し、送っ てくるケースもあった。

 ドームそばの西向寺で営む法要には全国から遺族ら約六十人が集 まり、一瞬にして生を絶たれた犠牲者を悼み、さらなる街の復元調 査を話し合う。


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「人影の石」説明板に名前追加

'97/8/2

 広島市中区の原爆資料館は一日、原爆の熱線を浴びて黒色に変色 した住友銀行広島支店の「人影の石」の説明板に、遺族からの「影 の主は私の母では」との申し出に応じて、その母親の名前を追加し た。

 申し出ていたのは広島県佐伯郡沖美町、主婦越智幸子さん(69)。 新たな説明は「この人影は自分の母親である越智ミツノさん(当時 四十二歳)ではないかと申し出がありました」との表現。「熱線の 影響で黒く変色した」との、これまでの説明板に追加した。

 一九七一(昭和四六)年、旧広島支店の取り壊しに伴い、石段が 資料館に展示され、ミツノさんが原爆投下直前に同支店の石段に座 っていたとの目撃者が現れた。このため、越智さんは資料館に表示 を申し入れたが認められず、孫娘らの勧めで昨年、再び申し出た。

 越智さんは「影が薄くなるたびに母が遠ざかるようだったが、や っと認められてうれしい。良い供養になりました」と、資料館にユ リの花を手向けた。資料館側は「証人は亡くなっており、断定は出 来ないが、ご遺族の気持ちに配慮した」と、命日の八月六日を前に 掲示に踏み切った。


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平和誓う「原爆の子の像」碑前祭

'97/7/27

 被爆五十二周年を間近に控えた二十七日、広島市中区の平和記念公園で「原爆の子の像」の碑前祭があった。市内の小中高校計21校の児童・生徒たち約三百人が参加。一九五五年十月に白血病のため十二歳で亡くなり、像のモデルになった佐々木禎子さんをしのび、平和への努力を誓った。 生徒を代表して幟町中学三年上野沙弥香さん(一四)と二年対馬香織さん(一三)が「平和のため、中学生が何をしなければならないのかをしっかり考え、行動に移していきたいと思います」とあいさつ。全員が一分間の黙とうをし、原爆の子の像のそばに折りづるを捧げた。

続いて、祇園東中学三年松井瞬君(一四)が、「私たちはヒロシマを拠点とし、世界に平和を訴えていくことをここに誓います」と平和アピ-ルをした。


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反核平和の火リレーがゴールイン

'97/7/26

 広島県内の八十六市町村すべてを走り継ぎ、核兵器廃絶を訴えた 「反核平和の火リレー」(県青年婦人平和友好祭実行委員会主催) の最終走者が二十五日、広島市中区の平和記念公園へ帰ってきた。

 午後五時半、被爆者ら約六十人の拍手に迎えられ、「平和の灯」 から採火したトーチを掲げた中区舟入南三丁目、舟入小六年佐藤有 君(11)ら十五人が、原爆慰霊碑前にゴールインした。

 到着式では、広島県原水禁の坂本健事務局長が、「みなさんの平 和への情熱は県民に伝わったはず」とねぎらった。第一走者と最終 走者の両方を務めた被爆者の西区南観音町、無職土井亮さん(81) は、「これからも平和の大切さを、身を持って若者に伝えていきた い」と話していた。

 リレーは六月十九日、慰霊碑前をスタート。約千九百キロを延べ約 一万千人がトーチをつなぎ、県内の全市町村に国家補償に基づく被 爆者援護法や非核法の制定に向け、政府へ働きかけるよう要請し た。


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国連軍縮札幌会議が開幕

'97/7/23

 包括的核実験禁止条約(CTBT)後の核軍縮などを論議する国 連軍縮札幌会議が二十二日、札幌市中央区の札幌パークホテルで始 まった。三十二カ国の軍縮担当者や研究者ら、オブザーバーを含め 百一人が参加。二十五日までの四日間、軍縮と地域安全保障の課題 をテーマに意見交換する。

 午前十時からの開会式では、国連軍縮センターのプロブスラブ・ ダビニッチ所長が「冷戦後の世界は対立から融和へと移ってきた が、同時に予測できない局地的国内紛争が発生し始めた。国際社会 は、大量破壊兵器だけでなく、通常兵器の拡散防止を急ぐ必要があ る」とあいさつした。

 被爆地から出席した平岡敬広島市長は、「原爆ドームの世界遺産 化や国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見など、核兵器廃絶への 国際社会の潮流にもかかわらず、強行された米国の臨界前核実験に 危機感を覚える」と強調。非核地帯の拡大や国連軍縮特別総会の早 期開催など核兵器廃絶への四つの提案をした。

 続いて全体会議に入り、米国軍備管理軍縮庁次官のラルフ・アー ル二世をはじめ、米国、インド、日本からの参加者がCTBT後の 核軍縮計画について、それぞれの国の姿勢を基調報告した。

 国内の軍縮会議は九回目。スイス・ジュネーブの軍縮会議と異な り、自由な意見交換を目的に一九八九(平成元)年から始まった。 札幌開催は初めて。  


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旧十日市町の住民、52年ぶりの町内会

'97/7/21

 戦前から広島市中区の旧十日市町に住み、原爆のために各地に離 散していた元住民が二十日、戦後初めての町内会を開いた。五十二 年間の空白を埋める集いには二十六人が顔を見せ、原爆で肉親を失 ったつらい体験や、生まれ育った町の思い出を語り合った。

 中区の県民文化センターで開いた会合には、東京、横浜をはじめ 県内外に転居した、六十―八十歳の人たちが集まった。今も十日市 町一丁目で寝具店を営む木村清子さん(74)が「この中で、十日市に 住んでいるのは私一人。原爆の被害がどんなにむごかったことか」 とあいさつ。亡くなった両親や兄弟らに黙とうをささげた。

 二十六人は、持ち寄った写真や文集を頼りに、「よく町内会で花 見を開いたね」「お寺の境内で野球をしたなあ」など、半世紀前の 記憶を確かめ合う。母校の本川小の校歌を口ずさみ、肩を抱き合っ て再会の喜びをかみしめていた。

 木村さんは「元気なうちに、幼なじみと再会したい」と四年前か ら、妹の山本正子さん(71)=佐伯区五日市一丁目=と協力し、町の 戸別地図の再現に取り組んできた。親類や旧友の記憶や人づてを頼 りに、三十五人の消息を捜し出し、この日の集いが実現した。

 爆心から約七百メートルの旧十日市町には約六十世帯が暮らしていた が、原爆によって町は全壊。東京都大田区から訪れた最年長の上山 千鶴さん(80)は「戦後は、みな厳しい暮らしを余儀なくされただけ に、心で通じ合えた。今後も互いに連絡を取り、近所同士の付き合 いを取り戻していきたい」と話していた。  


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