北と南で連携の波動/52年目の出発

いくさの苦脳複眼で迫る

ヒロシマとアイヌ民族、沖縄を取り込んだ一人芝居
の打ち合わせをする小川道子さん

 「私の体はもうこの世にない。影だけが残ってしまったの」。札 幌市中心部にある小劇場。小川道子さん(48)は「白い石」をなでな がら叫んだ。

 アイヌ民族の父は、沖縄戦で行方不明。原爆で一瞬のうちに亡く なった母の「人影」に支えられながら、少女は故郷の北海道で新し い人生を切り開く―。ヒロシマの復興の象徴であるキョウチクトウ をバックに、一時間四十分。約百人の観客に感動が広がった。

 原爆の熱線で石段に焼き付けられたヒロシマの「人影の石」。演 劇集団を主宰する小川さんは、写真集で存在を知り、直感した。 「戦争のむごさを語り継ぐには、この生きた証人しかない」。一人 芝居「ほろほろと…―カムイの声を聴きながら」を構想した。

 ただ、この北の地でヒロシマを訴えるだけで、共感の輪を広げら れるのか。

 アイヌ新法は成立したものの、今も差別は残る。「アイヌの人た ちから土地や生活を奪うやり方は、アジアを侵略したかつての日本 に通じるところがある」。さらに、激しい地上戦に見舞われた沖縄 で、戦死した二十二万人のうち、アイヌを含めた北海道出身者が沖 縄県外では最多の千七百五十九人に上ったことも知った。

 少女の「心の軌跡」を通して戦争と原爆、戦後を問い直すため に、アイヌと沖縄を脚本に組み込んだ。

 「ほろほろと…」は、戦争と原爆の悲惨を伝えながら、避けて通 れぬ加害の視点をも問い掛ける。「ヒロシマの平和への訴求力は大 きいからこそ、被害だけにとどまるべきではない」。六月十四日に 初演を終えた小川さんは、広島公演を目指し、四十人の団員みんな で演じる脚本へと手直しを始めた。

 アイヌ出身兵と地元民が共同で建立した納骨堂「南北の塔」がた つ沖縄戦の主戦場、糸満市。「平和の礎(いしじ)」のそばにある 県立平和資料館は、一九九九(平成十一)年末の建て替えに向け、 報告案作りを急いでいる。

 「これまでは沖縄戦に偏り過ぎだった」。「慰霊の日」を終えた ばかりの六月二十四日、沖縄国際大教授の石原昌家さん(56)は、被 爆資料の展示の重要性をかみしめる。

 一昨年九月の米兵による少女暴行事件は、戦後負い続けてきた基 地の島・沖縄をあらためて浮き彫りし、世論は沸騰した。米軍基地 用地の継続使用に落ち着いた今、「反基地」の高揚はない。オキナ ワの苦悩を広く伝えるには、「非核・非戦を訴え続ける被爆地との スクラムが欠かせない」と石原さんは力説する。

 長崎に原爆を投下した米軍機が、その後で沖縄本島北部の伊江島 に立ち寄った―。この事実を沖縄の子供たちは、ほとんど知らな い。「沖縄戦の終結」「戦後の始まり」のコーナーでは、原爆被害 を展示し、なお続く現代の核脅威を訴えることも考えている。

 資料館の近くで沖縄戦の証言を続ける、ひめゆり同窓会副会長の 本村つるさん(72)は、「悲惨な体験を伝えるだけでなく、核兵器や 在日米軍など今日的問題も織り交ぜながら平和を訴えたい」と、視 点を広げた語り部活動を目指す。

 南北におよそ二千キロを隔てた北海道と沖縄で動き出した新たな平 和発信。その要にヒロシマがある。

 被爆半世紀を超え、被爆体験を持つ人たちの高齢化、減少が著し い。次代に実相をどう伝えるかが課題になる。ヒロシマは各地でど う語られ、どう伝えられているのか。さまざまな取り組みを追っ た。


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