「何を どう発信」模索/原点での胎動

負の遺産 世界のテーマに

原爆資料館をヒロシマの博物館に−。約1万2千点の
被爆資料の整理・分類作業を見守る畑口館長(左端)

 「廃虚を知らない自分が、どうしたらヒロシマを伝えられるだろ うか」。広島市の原爆資料館長の畑口実さん(51)は、四カ月たった 今も、就任時の思いを反すうする。

 資料館長としては初の戦後生まれ。胎内被爆者で、五十二年前の 記憶はない。前館長からアドバイスを受けながら、国内外の見学者 の説明に立つ。その度に、被爆体験を持たない戸惑いともどかしさ を痛感する。

 厳しい数字もある。年間入館者数は百四、五十万人を維持してい るが、修学旅行生の入館は九年連続で減少。昨年、訪れた児童・生 徒は、データを取り始めた一九八一(昭和五十六)年以降、初めて 四十万人を割り込んだ。「どうしたら若者を引き寄せられるだろう か」。畑口さんの二つ目の自問が始まった。

 資料館の地下倉庫には、市民から寄せられた約一万二千点の資料 が眠る。二年前から、二人の学芸員が「被爆のあかし」の整理・分 類作業を進めている。

 ばく大な資料を見詰めながら、畑口さんは思う。「原爆の惨禍は どれほどだったのか、人々にどんな被害をもたらしたのか。疑似体 験として伝えられないだろうか」。被爆資料の持つ訴求力に寄り掛 かるだけでなく、マルチメディアや映像を駆使した新しい展示方法 で、ヒロシマを「発信する博物館」にできないか、と。

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 ヒロシマをどう伝えていくのか―。この難題を問う論争が、平和 運動団体の間で波紋を呼んでいる。広島県原水禁の常務理事横原由 紀夫さん(56)が四月、平和教育冊子に発表した一文がきっかけだっ た。

 「ヒロシマは水戸黄門の印ろうになっている」。横原論文は、国 内外で必ずしも受け入れられていないヒロシマを、こう表現した。 「他からの批判を認めず、被爆者を前面に出せばいいという安易な 姿勢があった」と、あえて「タブー」に踏み込んだ。

 被爆者は戸惑い、反発もした。広島県被団協の事務局次長近藤幸 四郎さん(64)には「運動の積み重ねを切り捨てている」と映った。 「被爆者の体験があるから、ヒロシマは世界の共感を得る。この原 点を忘れては困る」と言い切る。

 キャリアが三十年を超える運動家の「対論」は、すぐさま結論が 出るテーマではない。二人のジレンマは、ヒロシマのいらだちでも ある。

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 八月六日の平和祈念式に向け、平岡敬広島市長は今、平和宣言の 原案を練っている。その脳裏には、スペイン・バルセロナで始まっ た欧州巡回原爆展の反響が浮かぶ。「原爆被害から、どんな思想や 文化が生まれたかを知りたがっていた」。欧州の人々は、復興を遂 げた広島の街と、戦後を生き抜いた被爆者に衝撃を受け、「希望の 象徴」と感嘆の声を上げた。

 「ヒロシマは原爆被害の特殊性にこだっわてきたが、二十世紀文 明の『負の遺産』としてヒロシマを思想化し、未来に向けた人類共 通のテーマにすれば、海外との溝は埋まっていく」。平岡市長が欧 州で学んだ結論である。

 それを市長は、「平和文化」という言葉に置き換える。平和音楽 祭や絵画展など芸術が持つ力で、核兵器廃絶を訴える。ヒロシマを 思想化し、発信するため、来年度には広島平和研究所も開設され る。新たな試みが、芽吹きつつある。

 ヒロシマは、世界に語り継ぐための自問自答を繰り返しながら、 次世紀に向かう。

 (おわり)

 〈このシリーズは、報道部・金森勝彦、藤井礼士が担当しまし た。〉


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