爆死した米兵捕虜目撃/相生橋「秘話」

相生橋を背に「あの日」見た光景を証言する蔵田淑子さん。「人の気配は
なく『原爆のにおい』としか言えない、においが満ちていました」

 原爆投下の翌日、ドームそばの相生橋で米兵捕虜が電柱に吊(つ る)されていた―。「原爆秘話」の一つである。逃げるところを市 民につかまり、なぶり殺されたらしい…。口伝えで語り継がれるう ちに尾ひれもつき、また、それをまことしやかに話す人がいる。

 米軍は長い間、自国の兵士がキノコ雲の下にいたことを否定して いたが、一九八三年に「陸軍八人と海軍二人の捕虜が原爆で犠牲に なった」と公式に認めた。が、実数を含めてなぞは多い。市が七一 年編さんした『広島原爆戦災誌』には「被爆直後、死体処理前に、 相生橋東詰め北側の電柱の柱の下に、アメリカ兵の捕虜が死んでい たが…」と、簡単な記述が残るだけだ。

電柱に針金でくくる

 「ええ、若い兵隊さんが電柱の根元に針金でくくられていたの は、はっきり覚えています」

 広島市東区の蔵田淑子さん(71)は、これまで盛んにいわれていた 翌日ではなく、その日に目撃していた。相生橋から東に約五、六十 メートルの電車通り南側。その目と鼻の先に自宅があった。旧姓笠井。生 家は「猿楽町四十九―一番地」で傘の製造・卸を営んでいた。市立 第一高女(現・舟入高)を卒業し、爆心地から約四・三キロの三菱重 工広島造船所に勤めていた。

 「引き留められましたが、乾パン一つもらって帰ったんです」。 火の手を避けて天満川の河原沿いに北上し、舟入、土橋と電車の線 路を歩いて爆心地へ向かった。相生橋にたどりついたのは午後七時 ごろ。

 橋の西側には馬がもんどり打って倒れ、その前後に兵士が六人ほ どうつ伏せになっていた。人気の全くない橋を渡ると、素足にズッ クを履いた両足を投げ出し、頭を垂れた米兵がいた。針金はカーキ 色の服を身に付けていた上半身と、根元が一部残った電柱越しに巻 かれていたという。

 自宅跡はくすぶり続け、入れなかった。翌日、母の妹夫婦がいた 佐伯区で、弟二人と妹に落ち合う。六つ違いの弟は学徒動員された 中区鶴見橋付近で被爆し、大やけどで戻った。

 「長女の私が十九歳、子どもばかり残って…」。父伊兵衛(49)は 建物疎開に出たまま行方不明となり、母喜美子(43)は原爆投下の前 日に疎開先から戻り、自宅で爆死。兄弟の戦後はそこから始まっ た。

 相生橋で「あの日」見たことは、内輪の席でたまに口にしたが、 それもいつしかしなくなった。三年前に亡くなった夫と家業のアイ スクリーム製造で忙しく、それが「秘話」になっていることも気づ かなかった。

当時の中学生も記憶

 猿楽町ゆかりの人を訪ねるうち、当時中学生だった男性二人が投 下の翌日、やはり相生橋の東側で若い米兵を目撃していた。その場 所は微妙に食い違ったが、がれきが足下にころがっていたのは一致 した。二人とも通り掛かった人たちと同じように、怒りのうちにそ の場にあったものを投げたと明言した。

 蔵田さんが見た米兵捕虜と同一人物なのか。今となっては突き止 める術(すべ)はない。ただ、「あの日」の現場に立った彼女は再 度こう証言した。

 「私が見た時は石なんかなく、今にも立ち上がって歩きそうな感 じでした。アメリカの兵隊さんも、こんなところで死んでいる。気 の毒だなぁ…と思うだけで、まるで夢か幻を見ているようでした」

 相生橋での「原爆秘話」は、戦争という狂気を伝える「悲話」で もあった。


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