奨励館で最後の団らん/青春の地

被爆体験をを初めて聞いたという学生たちからの
質問に答える山内悦子さん
(7月2日、新潟大校舎)


 しの突く雨の中、新潟市山木戸五丁目の主婦、山内悦子さん(69) はマイカーを駆って新潟大へ向かった。全学年を対象にする教養科 目「平和を考える」。教室を埋めた百余人の学生を前に、広島での 青春を凛(りん)と語り始めた。

 「昭和十九年四月、広島の市立第一高等女学校の三年に編入しま した…」。両親と生後間もない弟の四人で落ち着いた先は「猿楽町 十五番地」、現在の原爆ドーム敷地内。その前年十一月、内務省中 国四国土木出張所が創設され、広島県産業奨励館に構えた。父親は 所長付きの運転手。郷里の富山から神戸を経て三度目の転勤だっ た。

軍需工場で雷管削る

 板張りの官舎が、ドーム南側に残る噴水のそばにあった。 父は車庫の一部を改造して「五衛門ぶろ」を据え、畑もつくった。 周りの店は「しもたや同然」に見えた。城下町時代から続くにぎわ いは、すっかり影をひそめていた。

 学校は陸軍被服廠(しょう)の工場となり、生徒たちは家庭から 供出したミシンで野戦蚊帳も縫った。四年生になると軍需工場に動 員されて昼夜、旋盤に向かっては弾丸の雷管や信管を削った。いつ 明けるとも知れぬ陰うつな日々。それだけに、心弾んだひとときが あざやかに残る。

 「夏の夕なぎ時分には、奨励館三階の庶務課に父を迎えに行き、 回廊からバルコニーに出るんです。川風の気持ちよさっといった ら」。元安川では一緒に、特性の箱眼鏡と網でエビをすくった。そ れを母の実家から届くヤシ油を溶かして天ぷらに揚げる。ちゃぶだ いには、ドーム敷地内で栽培したトマトやキュウリも並んだ。家族 そろっての最後の夏は、つましくとも団らんのうちに流れた。

 原爆投下の二カ月前、東区内の官舎に移った。爆心地から約二・ 五キロ。「気がつくと屋根や壁もなく、やがて皮膚がアコーディオン のようになった人たちに続いて、骨が浮き出た父が官舎に…」。四 十歳だった林鷹三は髪も、まゆも抜け落ち、十四日後に息を引き取 った。公園で遺体を焼き、白木の箱を抱いた母子三人は、復員兵で すし詰めの無蓋(がい)車に乗り込んで広島を後にした。

新潟被爆者の会理事

 いつしか教室の窓越しに梅雨の晴れ間がのぞいていた。かたずを のむ学生たちに「生きとし生ける者を奪う核爆弾とは共存できませ ん」。心からの叫びは、最後は涙まじりとなった。

 山内さんは長い間、「専業主婦一筋」だったという。北陸地方建 設局勤務の夫と十九歳で結婚して以来、一男二女の子育てと転勤に 追われた。ひと息ついたと思ったら、八つ年上の夫は若いころから の持病が悪化し、二人三脚の闘病生活が続く。病院への送り迎えを するため、一念発起して昨年免許を取った。

 「この年で車に乗るようになり、それで新友会のお手伝いもでき るようになったんです」。新友会は「新潟県原爆被爆者の会」の略 称。応召で被爆した男性を中心に二百八十人の会員がおり、女性で ただ一人理事である。昨年から請われて新潟大で語り部を務める。

 キャンパスからの帰り道。再びしの突き始めた雨の中、苛(か) 烈な青春がよみがえるのか、あらためてかみ締めるように話した。

 「戦争で勉強さえも十分にできなっかた友や、家族にみとられる こともなくなくなった人たちを思うと、生かされている私が何かし なければ。そんな気持ちがうずくんです」


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