苦難乗り越え・・・孫5人/生き抜いて

「また違った人生があったんじゃないか。そう思うことは
ありますよ」。半生を熱っぽく語る佐伯一義さん
(広島市佐伯区の自宅)


 母子二人。最後となる朝食はゆでたジャガイモ四個だった。母マ サコ(43)に声を掛けて「猿楽町四十五番地」の実家から登校するこ ろ、時計はちょうど午前八時を指していた…。

 学校に残り防空用務

 広島市佐伯区八幡二丁目の佐伯一義さん(67)は、「あの日」朝の 記憶をまさぐってみても、母と交わした会話は「行ってきます、く らいですね」という。突然の別れになるとは「だれも分からんしね ぇ…」。つぶやきが宙を漂った。

 母校は、爆心地から約九百メートルの県立広島一中(現・国泰寺高)。 「教室で腰を下ろしたら『ドカーン』。気がつくと血まみれだっ た」。同級の三年生、約二百八十人は市郊外の東洋工業(現・マツ ダ)にいた。春先に胸を患い動員を猶予された代わりに、校内での 防空用務をいわれていた。

 倒壊した屋根の上を伝って火の手から逃げた。広島湾に浮かぶ金 輪島に収容され、そこから米軍艦載機の襲撃をついて筏(いかだ) で大竹に上陸。列車やバスを乗り継ぎ、祖母たちが疎開していた広 島県佐伯郡佐伯町にたどり着く。「それが、何日だったのかがはっ きりしない」。脱毛に貧血、おう吐…。被爆による急性障害に、医 者も見兼ねる状態が続いた。

 疎開先に移していた抗生物質が効いたのか、髪の毛がはえ始めた のは秋風が肌寒くなった十一月。歩けるようになると、実家跡を探 した。幼いころから見慣れた真ちゅうのヤカンそばに、母とおぼし き骨があった。「客かも分からないけど、そう思うしかなかったで すね」。実家の「亀甲堂」薬局を切り盛りしていた叔母坪内トメ (29)も「あの日」建物疎開作業に出たまま、行方不明であった。

 「それからですよ。地獄を見たのは…」。続く言葉はせきを切っ たように、熱くほとばしった。「片方の目をなくし、親もいない。 大きな会社からは相手にされないし、小さなところに行けば保証人 をいわれる。人より随分遅れを取りました」。原爆で左の視力を奪 われた。

 手持ちの衣類まで売って母校を卒業すると、級友たちが進学する のを横目に、縫製業に生きる糧を求めた。給与は安くとも住み込み で働けた。朝鮮戦争が起きた一九五〇年、先の見えない郷里を後に して大阪へ。

高齢被爆者支援に力

 「原爆で死ぬ目に遭ったことよりも、社会的な差別の方が苦しか ったですね」。ようやく賞与や保険もある大手ミシン会社に採用さ れたのは三十五歳の時。日本中が、毎年一〇%台の経済成長率に沸 く高度成長のさなかにあった。

 ここで、紳士服を縫ってきた腕が生きた。セールスマンとして何 度も成績優秀者に輝き四十三歳の折、郷里への転勤を希望した。そ こまでの心のゆとりをつかんだ。幼いころ死別した父の里に自宅を 構え、大阪でもうけた家族四人で戻った。結婚した娘二人も近くに 住み、やはり女の子ばかり五人の孫にも囲まれる。そして今も現役 で働く。

 定年後の第二の職場は、キリスト教団体が、もともとは原爆で身 寄りを失った高齢者のために開設した特別養護老人ホーム。五十八 人が入園するホームで夜間のサポートに就く。

 「職安で求人を見つけただけ。気を使わない仕事だから務まって いるんでしょう」。そう言いながら、勤務はこの夏七年目に入っ た。


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