消えた古里/人の息遣い 映像に残す

元安川からドームを撮る田辺雅章さん。「父と一緒に川遊びをした」
少年時代のアングルにこだわった
(5月16日 広島市中区)


 「その時、ぼくは国民学校二年生だった」

 田辺雅章さん(59)の被爆体験記は、原爆を投下した米国による占 領時代の一九五一年に編まれ、岩波文庫となった『原爆の子』に収 まる。その田辺さんの手になるハイビジョン作品の収録が新緑輝く 五月、平和記念公園で始まった。「もうちょっと左へ…フル・サイ ズで…OK」。気合いに満ちた声が飛んだ。

 日よけキャップをかぶった監督兼制作者は、スタッフが次の撮影 地点に移動した後も、ひさしを被写体に向けたまま動こうとしなか った。「足の裏がしゃく熱のようになりながら、祖母とかわらを掘 り返したのは、ちょどあの辺り。遺骨は見つからずじまいでした 」。今はさくで囲まれるドームの中に、生家はあった。

 「猿楽町二十四番地」。そこで、母八重子(31)と弟紘郎(1ツ)は爆 死した。陸軍中尉の父文夫(38)は出勤途中に被爆し、長男の田辺さ んたちが疎開していた山口県熊毛郡で、終戦の日の八月十五日に亡 くなった。

祖母とタケノコ生活

 冒頭の手記が、今に続く道を決定づけた。『原爆の子』は相前後 して二つの映画となり、中学生だった田辺少年もロケ地での案内を 手伝う。「撮影スタッフが肉を腹いっぱい食べるのを見て、それで この仕事にあこがれたんです」と真顔で言う。土地や貸家を手放す 祖母との「タケノコ生活」が続いていた。

 『原爆の子』ゆえの注目は、重荷にもなった。「平和」を訴える 労働組合の運動にも駆り出され、振り回された。学校からは冷やや かな視線を浴びた。いたたまれずに、高校は伯父がいた山口へ。東 京で働きながら大学を卒業して入社した中国新聞社ニュース映画製 作部でも、七五年に中区内で映像プロダクションを構えた後も、 「原爆」に関する仕事はかたくなに避けた。沈黙を守った。

 「テレビや新聞の前でも、おうむ返しに通り一遍の体験やスロー ガンをとくとく語る者たちと、同じように見られたくない。そうし た気持ちの被爆者は多いと思いますよ」。マスコミの原爆報道の姿 勢をもさらっと、かつ厳しく批評した。

 沈黙を破ったのは被爆五十周年。広島市の「証言ビデオ」制作で 在韓被爆者をテーマにするのを知り、手を挙げた。被爆体験を持つ 自分にこそと思った。国家のはざまで顧みられることの少ない被爆 者たちとひざを交えて、その思いを収録した。再び「原爆」に向き 合い、おぼろげに温めていた企画が焦点を結んでくるのを覚えた。

「この年になると・・・」

 それは、自身の原点にあった。生まれ育ち、消えてしまった街 を、残ったドームをデジタル映像で永久的に記録保存しようという ものだった。文部省の特殊法人「日本芸術文化振興会」から本年度 助成金交付の知らせが届いたこともあり、撮影に取り掛かった。

 若いスタッフを追い掛けながら、話は続いた。「この年になる と、現役であと何年できるか考えるようになるもんです」。照れと 自負をないまぜに「映像人としての集大成」をもくろむ作品の狙い を、こう明かした。

 「何より人の息遣い、ぬくもりがあった。最新の技術でドームに とどまらず、猿楽町の情景と音も復元し、あの日起きたことを伝え たい。きちんと残したい」

 一時間となる作品のタイトルは「原爆ドームと消えた街並み」。 生き残った元住民も協力する撮影は夏、いよいよ本番を迎える。

      =おわり=

(報道部・西本雅実)


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