98/12/15

ヒロシマの記録−遺影は語る  天神町南組


本社調査で確認   旧天神町南組は被爆死88人

平和公園南東〜平和大通り一帯 45年末まで

北組と合わせ住民の81%死没

 「核時代の原点」ヒロシマの被爆実態を調査している中国新聞社は十四日、平和記念公園と平和大通りになった爆心地、旧広島市天神町南組についてまとめた。原爆が落とされた一九四五年八月六日から年末までに八十八人の死亡が確認された。前回調査(十月十四日)で分かった北組の百六十三人と合わせた天神町住民全体の犠牲者は二百五十一人に上り、町内に居住者の八一%が被爆したその年に亡くなっていた。


平和大通りの南側の元安川右岸に1973年、天神町南組の旧住民が建立した慰霊碑。向こうに見えるのは原爆資料館
 天神町南組は、原爆資料館東館が立つ平和記念公園の南東部分から平和大通り一帯に当たり、爆心からの距離は四百二十〜六百メートル。元安川右岸にある南組の「慰霊碑建設管理委員会」(山本衛会長)のメンバーらが記憶を基にまとめ、今年五月公開した「復元図」には百十八世帯名が残る。調査は、遺族や市民の協力を得て実施した。

 南組では、国が広島市に指示した建物疎開により、四五年四月ごろから、現在の平和大通り一帯と南側で、防火地帯をつくるための家屋取り壊しが始まった。今回の調査で、立ち退きを免れた二十四世帯のうち十六世帯と他地区に転居した十七世帯の合わせて三十三世帯について、個々の被爆死状況が分かった。

 四五年末までの死没者八十八人のうち、遺骨さえ見つからずに、遺族たちがやむなく「八月六日死去」と届け出たり、墓石に刻んだ犠牲者は七十四は人。さらに、三人が放射線障害に苦しみながら被爆七年後までに亡くなっていた。

 一世帯当たりの犠牲者が最も多かったのは、立ち退きを免れた区域の二家族と、天神町北組に移った一家族の各六人。両親と子どもの計五人の一家全滅も二家族あった。転居先での被爆死が確認された十七世帯は、疎開先の有無に関係なく立ち退きを命令されたため、街中の親族や知人宅に身を寄せたり、他地区の建物疎開に動員されたりして犠牲になっていた。

 復員した四五年九月初めに両親をはじめ家族六人の爆死を確認した山口市秋穂二島、久保明夫さん(71)は言う。「元安川沿いに、白骨が石炭を積んだようになっていた光景は忘れられない。無残としか言いようがありません」

 旧天神町北組があった辺りの平和記念公園内には来年度、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」が二〇〇二年開館を目指して着工される。追悼や展示のあり方については、市や地元被爆者団体を交えて議論が続いている。



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