朝日 俊明(12) 遺品と資料
安佐郡可部町(安佐北区)▼可部小▼8月9日▼作業現場で整列
中に被爆し、目の前の本川に飛び込む。横川町を経て自宅に向かっているところを、可部町内の知人が見つけて自転車で運ぶ途中、捜しに来た父輝一に引き継ぐ。安佐郡祗園町の動員先で被爆し、町内の薬局店で弟と会った広島工専(現・広島大)2年の兄宣之は「いかだに乗った級友たちは、『万歳』を叫びながら流れて行ったそうです」。自宅で「どうしても勝つんだ」「欠席の届けを」とうわ言を繰り返し、9日夜明け前に死去。
石田 正成(12)
広島市西観音町2丁目の二中寮。実家は安芸郡倉橋島村(倉橋
町)▼重生小▼8月7日▼父勇が船で捜しに行き、8月末、草津方
面の寺に安置されていた遺骨を引き取る。住職に「お母さんはまだ来ませんか」と言い残していた。姉泰子は「先生の言いつけで1日に帰省し、5日夕の定期船で戻りました。当時、船は隔日にしかなく、母はあの時に帰さなければよかったと悔やみました」
井尻 智夫(のりお)(12)
広島市舟入本町(中区)▼神崎小▼8月9日▼広島市女(現・舟入高)を卒業したばかりの姉浩子と3年の峰子が7日、倒壊した自宅近くの江波線軌道敷きで、寝かされていた重傷者のそばにあったかわらに「二中 井尻」と書かれてあるのを見つけ、舟入川口町の親類宅に運ぶ。姉たちは「『家の下敷きになったが、男の人が助けてくれ、友達と川伝いに逃げた』と言いました。最期は母ハジメや私たちの名前を一人ひとり呼んで静かに息を引き取りました」。
入江 時春(13)
安芸郡矢野町(安芸区)▼矢野小▼8月7日▼父勝次が憲兵隊員の制止を振り切って6日昼、大洲町(南区大州町)から段原、八丁堀を抜け、潮が引いた作業現場前の本川にいたのを見つける。焼け残っていたゲートルをひも代わりに、肩に背負って帰宅。姉スミエは「目は見えず、一晩中『水、水』と叫び、7日午後3時すぎ亡くなりました」と言う。
大瀬戸 博信(13)
広島市己斐町(西区)▼福岡県門司市(北九州市)・小森江小▼
8月7日▼6日午後、自宅玄関前で倒れていたのを、母光子が見つけ、古田町田方(西区)の祖母宅に連れ帰る。当時、己斐小2年だった妹陽子は「被爆後すぐに飛び込んだ本川から土手をはい上がったためか、焼けただれた皮膚の中に小石がいっぱい埋まっていました。登校中に被爆した私を気遣い、『僕はいいから、妹に水を飲ませてやってくれ』と母に言ったそうです」。7日朝、「苦しいよ、苦しいよ」と繰り返して死去。
大田 悦雄(12)
広島市錦町(中区広瀬町)▼広瀬小▼8月6日▼応召で岩国市にいた父勇が捜すが、遺骨は不明。錦町で祖父と一緒に被爆した弟俊治は「兄は、父が帰宅するといつも両手をついて出迎えていたと聞きます」▼母静枝(31)は建物疎開作業があった爆心900メートルの小網町に出て爆死。祖父力松(64)は草津浜町で18日死去。
大橋 正和(12)
佐伯郡五日市町(佐伯区)▼大阪府立市岡中(現・市岡高)から転校▼8月9日▼級友と本川、福島川、山手川を渡って己斐町まで自力で逃げ、軍のトラックで伯父がいた五日市町へ運ばれる。伯父宅でトマトを食べ、最期に大きなため息をついて亡くなる。大阪の家族が死去を知ったのは、母寿子が広島を訪ねることができた終戦直後だった。6月1日の大阪大空襲で此花区の自宅が焼失し、母の兄宅に疎開を兼ねて一人移っていた。
沖田 武司(13)
安佐郡安村(安佐南区)▼大須小▼8月7日▼己斐町の母の実家にたどり着き、両親や広島駅前で被爆した兄弘が7日駆けつける。兄は「意識が薄れ行く中、『大型爆弾でやられた。チクショウ残念だ』と涙ぐみ、午後4時すぎ、苦しみながら息を引き取りました」と言う。
小田 宏(13)
広島市観音町(西区)▼山県郡・新庄小▼母節子がいた自宅にたどり着き、7日死去。山県郡新庄村(大朝町)の祖母宅に縁故疎開していた妹和子は「被爆後の46年4月に生まれた弟は翌年に亡くなり、母も原爆のことは何も言いたがらず48年亡くなりました」▼陸軍中尉の父四四六(34)は11日、広島第一陸軍病院戸坂分院(東区)で死去。
加納 文治(12)
賀茂郡西条町(東広島市)▼西条小▼8月6日▼広島駅で列車を降り、歩いて作業現場に向かう途中だった。一緒にいて助かった同級生が近くに落ちていた加納の腰袋を持ち帰る。遺骨は不明。「戦陣訓」などを納めていた袋を仏壇に供える姉の昭代は「どこかへ救護されていると信じて毎日毎日祈る気持ちで捜しましたが、駄目でした。骨つぼには、へその緒と産毛を納めています」。
川本 霞(12)
広島市尾長町山根(東区)▼尾長小▼8月9日▼父盛三が8日、同じ山根に住んでいた5学級の正木具視の母から広島赤十字病院にいると聞き、大八車で向かう。町内から爆心1・7キロの比治山橋西詰めでの建物疎開作業に動員されていた姉艶子は「自宅が倒壊していたため、安芸郡府中町の伯父宅に運びました。『おなかがすいた』と言うので、伯母がかたくり粉に水を混ぜてつくったあんかけを食べさせました。9日明け方、静かに息を引き取りました」。
岸田 守郎(12)
二中寮。実家は山県郡加計町▼加計小▼8月8日▼寮に収容されていたのを、三菱重工業広島機械製作所で被爆した崇徳中4年の兄道生が見つける。6日深夜、守郎ら重傷の生徒たちを乗せたトラックに同乗して北西約15キロの佐伯郡平良村(廿日市市)役場に向かう。兄はそこから夜道を歩いて母がいた加計町へ。「弟は最期に何度も『お母さん』と言って死んだそうです」▼広島高1年(現・広島大)の兄陽三(19)は動員先の日本製鋼所(安芸区船越町)が電休日となり、伯父宅を訪ねて遺骨は不明。
久野(くの) 義高(13)
広島市古田町古江(西区)▼不明▼8月7日▼二中生徒だった兄栄世が6日、市内電車の中で見つけ、背負って自宅まで連れ帰る。おい喜寛は「父が生前に一度か二度話したところでは、名前を叫びながら電車を一台ずつ捜して回ると、座席にいた叔父がゆっくり片手を上げたそうです。近寄っても顔がやけどで分からず、再度名前を呼ぶと、うなずいたといいます」▼母文(38)は8日、姉順子(18)は25日死去。
河野 忠徳(12)
広島市東雲町(南区)▼舟入小▼8月6日▼父数夫が7日夕、作業現場東隣の材木町(中区中島町)の寺境内跡に敷かれたござに、両手で顔を覆ったままの遺体を見つけ、自転車の荷台に乗せて連れ帰る。小学2年だった妹桂子らは「広島東署員の父は家を空けていることが多く、『僕が家族を守るんだ』とよく話していました」。
佐々木 清(13)
安佐郡日浦村(安佐北区)▼広島高師付属小(現・広島大付属小)▼8月6日▼遺骨は不明。米国カリフォルニア州で生後間もなく母が亡くなり、兄と二人で広島の叔父、叔母夫婦に引き取られる。通学途中に被爆した広島市立工専(現・広島大)1年の兄哲は「7月に弟が日浦村に疎開して来て、初めて兄弟で暮らすようになりました。毎朝午前5時40分ごろ一緒に家を出ていましたが、動員作業で疲れ、弟と何を話していたのか思い出せません」と戦時下を振り返った。
小路 利之(12)
安佐郡祗園町北下安(安佐南区)▼祗園小▼8月7日▼父春三と当時15歳の兄信男が7日未明から、市内を捜し歩き、父が江波町の寺に収容されているのを聞く。弟を戸板に乗せて連れ帰った兄は「周囲の人の話では、父が到着する直前まで生きていたそうです。両親に、将来は東京か大阪の大学に進んで弁護士になると話していました」。
相田(そうだ) 成一(13)
広島市楠木町(西区)▼不明▼8月6日▼広島鉄道局に勤めていた父一郎が出張先から引き返して捜すが、遺骨は不明。
高野 武治(13)
広島市似島町(南区)▼似島小▼8月8日▼母ハルミと姉が爆心1・5キロの広島赤十字病院で見つけ、8日夜、自宅に連れ帰る。小学5年だった弟文次は「ハサミでぶら下がった皮を切り、自宅店にあったジュースを飲み、帰宅して30分後に死にました」と言う。
高間 道雄(13)
佐伯郡大野村土井(大野町)▼大野東小▼8月6日▼父正登ら5人が8日、作業現場西側の土橋電停近くで、日よけ代わりにトタンで囲われた遺体を名札で確認。88歳の母マサ子に代わって小学5年だった弟昭典は「どす黒くなっていた顔に、涙が乾いて白くなっていたのを、今も鮮明に覚えています。しばらく生きていたのだと思います」。
竹内 萃(あつむ)(13)
二中寮。実家は安佐郡戸山村(安佐南区沼田町)▼戸山小▼8月7日▼遺骨は不明。母コトが71年に似島で発掘された遺骨617体のうちから、希望者に配られた分骨を墓に納める。めい葉子は「萃さんの兄で私の父真純もシベリア抑留で亡くし、分骨により気持ちの整理をしたのだと思います」と、8年前に亡くなった祖母の遺志を継いで二中慰霊祭に参列する。
田中 英雄(13)
佐伯郡大竹町油見(大竹市)▼大竹小▼8月6日▼佐伯郡玖波町(大竹市)から漁船で救助に来た男性に「1年の田中です」と言い、船上で亡くなる。姉文子は「英雄が尊敬していた二中の先輩と捜しましたが見つけられず、終戦後に、玖波のその方の家で火葬していただいたことを知りました」。
津田 耕(つとむ)(13)
広島市天神町(中区中島町)▼不明▼8月6日▼福岡県から捜しに来た祖父元俊が、天神町の津田産婦人科医院跡で家族5人の遺骨を納めるが、76年、平和記念公園内の原爆供養塔に本人のものがあるのが分かる▼父享平(50)と母辰子(41)、九州大医学部の兄潤(18)、姉の和子(16)は、自宅で爆死したとみられる。
土谷 杏三(きょうそう)(13)
広島市千田町(中区)▼大手町小▼8月6日▼遺骨は不明。小学5年で比婆郡山内北村(庄原市)に学童疎開していた弟の崇は「家は焼け、三男の兄の写真は一枚も残っていません」。
|
|
死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所▼出身小学校(当時は国民学校)▼死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)▼被爆死状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略)
|
|