中国新聞社

99/11/16

ヒロシマの記録−遺影は語る  広島二中


死没者名簿 1年1学級


朝日 俊明 朝日 俊明(12) 遺品と資料
安佐郡可部町(安佐北区)可部小8月9日作業現場で整列 中に被爆し、目の前の本川に飛び込む。横川町を経て自宅に向かっているところを、可部町内の知人が見つけて自転車で運ぶ途中、捜しに来た父輝一に引き継ぐ。安佐郡祗園町の動員先で被爆し、町内の薬局店で弟と会った広島工専(現・広島大)2年の兄宣之は「いかだに乗った級友たちは、『万歳』を叫びながら流れて行ったそうです」。自宅で「どうしても勝つんだ」「欠席の届けを」とうわ言を繰り返し、9日夜明け前に死去。

石田 正成 石田 正成(12)
広島市西観音町2丁目の二中寮。実家は安芸郡倉橋島村(倉橋 町)重生小8月7日父勇が船で捜しに行き、8月末、草津方 面の寺に安置されていた遺骨を引き取る。住職に「お母さんはまだ来ませんか」と言い残していた。姉泰子は「先生の言いつけで1日に帰省し、5日夕の定期船で戻りました。当時、船は隔日にしかなく、母はあの時に帰さなければよかったと悔やみました」

井尻 智夫 井尻 智夫(のりお)(12)
広島市舟入本町(中区)神崎小8月9日広島市女(現・舟入高)を卒業したばかりの姉浩子と3年の峰子が7日、倒壊した自宅近くの江波線軌道敷きで、寝かされていた重傷者のそばにあったかわらに「二中 井尻」と書かれてあるのを見つけ、舟入川口町の親類宅に運ぶ。姉たちは「『家の下敷きになったが、男の人が助けてくれ、友達と川伝いに逃げた』と言いました。最期は母ハジメや私たちの名前を一人ひとり呼んで静かに息を引き取りました」。

入江 時春 入江 時春(13)
安芸郡矢野町(安芸区)矢野小8月7日父勝次が憲兵隊員の制止を振り切って6日昼、大洲町(南区大州町)から段原、八丁堀を抜け、潮が引いた作業現場前の本川にいたのを見つける。焼け残っていたゲートルをひも代わりに、肩に背負って帰宅。姉スミエは「目は見えず、一晩中『水、水』と叫び、7日午後3時すぎ亡くなりました」と言う。

大瀬戸 博信 大瀬戸 博信(13)
広島市己斐町(西区)福岡県門司市(北九州市)・小森江小 8月7日6日午後、自宅玄関前で倒れていたのを、母光子が見つけ、古田町田方(西区)の祖母宅に連れ帰る。当時、己斐小2年だった妹陽子は「被爆後すぐに飛び込んだ本川から土手をはい上がったためか、焼けただれた皮膚の中に小石がいっぱい埋まっていました。登校中に被爆した私を気遣い、『僕はいいから、妹に水を飲ませてやってくれ』と母に言ったそうです」。7日朝、「苦しいよ、苦しいよ」と繰り返して死去。

大田 悦雄 大田 悦雄(12)
広島市錦町(中区広瀬町)広瀬小8月6日応召で岩国市にいた父勇が捜すが、遺骨は不明。錦町で祖父と一緒に被爆した弟俊治は「兄は、父が帰宅するといつも両手をついて出迎えていたと聞きます」母静枝(31)は建物疎開作業があった爆心900メートルの小網町に出て爆死。祖父力松(64)は草津浜町で18日死去。

大橋 正和 大橋 正和(12)
佐伯郡五日市町(佐伯区)大阪府立市岡中(現・市岡高)から転校8月9日級友と本川、福島川、山手川を渡って己斐町まで自力で逃げ、軍のトラックで伯父がいた五日市町へ運ばれる。伯父宅でトマトを食べ、最期に大きなため息をついて亡くなる。大阪の家族が死去を知ったのは、母寿子が広島を訪ねることができた終戦直後だった。6月1日の大阪大空襲で此花区の自宅が焼失し、母の兄宅に疎開を兼ねて一人移っていた。

沖田 武司 沖田 武司(13)
安佐郡安村(安佐南区)大須小8月7日己斐町の母の実家にたどり着き、両親や広島駅前で被爆した兄弘が7日駆けつける。兄は「意識が薄れ行く中、『大型爆弾でやられた。チクショウ残念だ』と涙ぐみ、午後4時すぎ、苦しみながら息を引き取りました」と言う。

小田 宏 小田 宏(13)
広島市観音町(西区)山県郡・新庄小母節子がいた自宅にたどり着き、7日死去。山県郡新庄村(大朝町)の祖母宅に縁故疎開していた妹和子は「被爆後の46年4月に生まれた弟は翌年に亡くなり、母も原爆のことは何も言いたがらず48年亡くなりました」陸軍中尉の父四四六(34)は11日、広島第一陸軍病院戸坂分院(東区)で死去。

加納 文治 加納 文治(12)
賀茂郡西条町(東広島市)西条小8月6日広島駅で列車を降り、歩いて作業現場に向かう途中だった。一緒にいて助かった同級生が近くに落ちていた加納の腰袋を持ち帰る。遺骨は不明。「戦陣訓」などを納めていた袋を仏壇に供える姉の昭代は「どこかへ救護されていると信じて毎日毎日祈る気持ちで捜しましたが、駄目でした。骨つぼには、へその緒と産毛を納めています」。

川本 霞 川本 霞(12)
広島市尾長町山根(東区)尾長小8月9日父盛三が8日、同じ山根に住んでいた5学級の正木具視の母から広島赤十字病院にいると聞き、大八車で向かう。町内から爆心1・7キロの比治山橋西詰めでの建物疎開作業に動員されていた姉艶子は「自宅が倒壊していたため、安芸郡府中町の伯父宅に運びました。『おなかがすいた』と言うので、伯母がかたくり粉に水を混ぜてつくったあんかけを食べさせました。9日明け方、静かに息を引き取りました」。

岸田 守郎 岸田 守郎(12)
二中寮。実家は山県郡加計町加計小8月8日寮に収容されていたのを、三菱重工業広島機械製作所で被爆した崇徳中4年の兄道生が見つける。6日深夜、守郎ら重傷の生徒たちを乗せたトラックに同乗して北西約15キロの佐伯郡平良村(廿日市市)役場に向かう。兄はそこから夜道を歩いて母がいた加計町へ。「弟は最期に何度も『お母さん』と言って死んだそうです」広島高1年(現・広島大)の兄陽三(19)は動員先の日本製鋼所(安芸区船越町)が電休日となり、伯父宅を訪ねて遺骨は不明。

久野 義高 久野(くの) 義高(13)
広島市古田町古江(西区)不明8月7日二中生徒だった兄栄世が6日、市内電車の中で見つけ、背負って自宅まで連れ帰る。おい喜寛は「父が生前に一度か二度話したところでは、名前を叫びながら電車を一台ずつ捜して回ると、座席にいた叔父がゆっくり片手を上げたそうです。近寄っても顔がやけどで分からず、再度名前を呼ぶと、うなずいたといいます」母文(38)は8日、姉順子(18)は25日死去。

河野 忠徳 河野 忠徳(12)
広島市東雲町(南区)舟入小8月6日父数夫が7日夕、作業現場東隣の材木町(中区中島町)の寺境内跡に敷かれたござに、両手で顔を覆ったままの遺体を見つけ、自転車の荷台に乗せて連れ帰る。小学2年だった妹桂子らは「広島東署員の父は家を空けていることが多く、『僕が家族を守るんだ』とよく話していました」。

佐々木 清 佐々木 清(13)
安佐郡日浦村(安佐北区)広島高師付属小(現・広島大付属小)8月6日遺骨は不明。米国カリフォルニア州で生後間もなく母が亡くなり、兄と二人で広島の叔父、叔母夫婦に引き取られる。通学途中に被爆した広島市立工専(現・広島大)1年の兄哲は「7月に弟が日浦村に疎開して来て、初めて兄弟で暮らすようになりました。毎朝午前5時40分ごろ一緒に家を出ていましたが、動員作業で疲れ、弟と何を話していたのか思い出せません」と戦時下を振り返った。

小路 利之 小路 利之(12)
安佐郡祗園町北下安(安佐南区)祗園小8月7日父春三と当時15歳の兄信男が7日未明から、市内を捜し歩き、父が江波町の寺に収容されているのを聞く。弟を戸板に乗せて連れ帰った兄は「周囲の人の話では、父が到着する直前まで生きていたそうです。両親に、将来は東京か大阪の大学に進んで弁護士になると話していました」。

相田 成一 相田(そうだ) 成一(13)
広島市楠木町(西区)不明8月6日広島鉄道局に勤めていた父一郎が出張先から引き返して捜すが、遺骨は不明。



高野 武治 高野 武治(13)
広島市似島町(南区)似島小8月8日母ハルミと姉が爆心1・5キロの広島赤十字病院で見つけ、8日夜、自宅に連れ帰る。小学5年だった弟文次は「ハサミでぶら下がった皮を切り、自宅店にあったジュースを飲み、帰宅して30分後に死にました」と言う。

高間 道雄 高間 道雄(13)
佐伯郡大野村土井(大野町)大野東小8月6日父正登ら5人が8日、作業現場西側の土橋電停近くで、日よけ代わりにトタンで囲われた遺体を名札で確認。88歳の母マサ子に代わって小学5年だった弟昭典は「どす黒くなっていた顔に、涙が乾いて白くなっていたのを、今も鮮明に覚えています。しばらく生きていたのだと思います」。

竹内 萃 竹内 萃(あつむ)(13)
二中寮。実家は安佐郡戸山村(安佐南区沼田町)戸山小8月7日遺骨は不明。母コトが71年に似島で発掘された遺骨617体のうちから、希望者に配られた分骨を墓に納める。めい葉子は「萃さんの兄で私の父真純もシベリア抑留で亡くし、分骨により気持ちの整理をしたのだと思います」と、8年前に亡くなった祖母の遺志を継いで二中慰霊祭に参列する。

田中 英雄 田中 英雄(13)
佐伯郡大竹町油見(大竹市)大竹小8月6日佐伯郡玖波町(大竹市)から漁船で救助に来た男性に「1年の田中です」と言い、船上で亡くなる。姉文子は「英雄が尊敬していた二中の先輩と捜しましたが見つけられず、終戦後に、玖波のその方の家で火葬していただいたことを知りました」。

津田 耕 津田 耕(つとむ)(13)
広島市天神町(中区中島町)不明8月6日福岡県から捜しに来た祖父元俊が、天神町の津田産婦人科医院跡で家族5人の遺骨を納めるが、76年、平和記念公園内の原爆供養塔に本人のものがあるのが分かる父享平(50)と母辰子(41)、九州大医学部の兄潤(18)、姉の和子(16)は、自宅で爆死したとみられる。

土谷 杏三(きょうそう)(13)
広島市千田町(中区)大手町小8月6日遺骨は不明。小学5年で比婆郡山内北村(庄原市)に学童疎開していた弟の崇は「家は焼け、三男の兄の写真は一枚も残っていません」。

死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所出身小学校(当時は国民学校)死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)被爆死状況45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略)

手島 範明 手島 範明(12)
安芸郡海田市町(海田町)上市海田市小8月7日海田市町から駆けつけた救援隊のトラックで6日夕、自宅へ運ばれる。母ミヤコに「飛び込んだ川から土手をはい上がって、家がある方向を目指して歩いていたら、何度か眠りそうになったよ」と、被爆直後のことを話して7日昼死去。やけどを負った手で土手をはい上がったために指がちぎれかけ、皮でつながっていた。

研野 昭三 研野(とぎの) 昭三(13)
安佐郡祗園町長束(安佐南区)東京・芝中から転校8月6日東京大空襲後の6月、母富貴子と妹の3人で父の兄弟がいた長束に疎開。86年、平和記念公園にある原爆供養塔の遺骨再調査で、納骨が分かる。94歳になる母に代わって、長兄和人は「母は『昭三は消えてしまった。あの爆心地を歩いたことを思い出すのも嫌だ』と、戦後は広島を訪れようとしません」。

豊久 正博 豊久 正博(12)
佐伯郡大野村下浜(大野町)地御前小8月8日電車道づたいに己斐駅まで逃げ、大野村方面へ向かうトラックで帰宅。母寿子は、灯火管制により裸電球を覆っていた黒い布を外して最期をみとる。小学5年だった弟直衛は「兄の頭はやけどで倍くらいに膨れ上がり、太もものようにぶよぶよしていました。『先生が塀の下敷きになっているから助けなければ…』と、うわごとを繰り返しました」。

中井 義治 中井 義治(14)
広島市段原日出町(南区)段原小高等科8月8日現在、95歳になる父春一らが8日、江波町の救護所に駆け付けると、「息を 引き取ったばかり」と言われ、遺体を焼いて納める弟の崇徳中1年武幸(12)は爆心800メートルの八丁堀での建物疎開作業に出て、段原大畑町の救護所で8日、母ヒサヨにみとられて死去。

中石 芳治 中石 芳治(13)
二中寮。実家は豊田郡西野村(大崎町)西野小8月6日夕刻、ずぶぬれになって学校にたどり着き、間もなく死去。校庭でだびに付され、父峻節が9日に受け取る。翌年に生まれた妹タカ子は「空襲が激しくなり、両親は家に連れて帰るつもりで母が迎えに行ったそうですが、先生から大丈夫だと言われて、一人で戻ったことを死ぬまで悔やんでいました」と言う。

中東 幸雄 中東(なかとう) 幸雄(13)
広島市新市町(中区榎町)不明8月9日2学級の加戸博の父から知らせを受けた叔父夫婦が8日、県立広島商業学校の校舎を接収していた陸軍兵器学校広島分教所(中区舟入南6丁目)校庭に収容されているのを名札で確認。最期をみとった叔母美重は「頭を抱きかかえると私の腕がめりこむほどのひどいやけどでした。『悪かったねぇ、幸ちゃん』と声を掛けると、『戦争だもの』とけなげに答えました」としのぶ酢・ソース製造業の父岩雄(48)と母ユサノ(38)、妹喜美枝(2つ)、祖父幸次郎(76)は自宅で爆死し、家族5人が全滅。

西村 正照 西村 正照(12)
広島市己斐町(西区)草津小8月6日広島駅北側の東練兵場(東区)で被爆した二中2年の兄利信が帰宅後、捜しに向かい、上半身が焼けた弟を見つける。「背負うに背負われず、同じ1年生の谷口君を捜していた4年生の兄が助けてくれ、自宅に連れ帰ることができました」。広島市女(現・舟入高)3年だった姉美恵子は「声を掛けると、『お父さまがここにいる』と最期の声を振り絞りました」と言う中国軍管区司令部勤務の父利美(43)の遺骨は不明。

野間 正省 野間 正省(まさみ)(13)
広島市江波町(中区)江波小8月7日広島第一陸軍病院江波分院(中区江波南1丁目)で手当てを受け、近所の人が、両親らがいた現在の江波二本松に運ぶ。駆け付けた兵役中の兄に友の身を案じつつ「かたきを討ってくれ」と言い、7日朝死去。

花田 俊之 花田 俊之(13)
佐伯郡観音村屋代(佐伯区)観音小8月6日父が応召のた め、母マサヨらが捜すが、遺骨は不明。90歳になる母は「あの朝は家を出た途中に警報が鳴ったのでいったん帰宅し、解除となって『学校に行って来ます』と出ました」。5日夜から断続的に続いていた空襲・警戒警報は6日午前7時31分、解除となった中、原爆は投下された。

原田 公 原田 公(ひろし)(12)
広島市平野町(中区)の叔父宅。実家は佐伯郡沖村(沖美町)沖小8 月11日広島赤十字病院に運ばれている、との知らせを受け、父義夫と母マサヲが11日再び広島へ漁船で向かうが、病院地下室の階段途中で息絶えていた。弟孝知は「両親が到着する寸前に亡くなったそうです。髪がすべて抜け落ちていたので、見つけた時は息子だとは気づかなかったと話していました」平野町の叔父竹中保(29)は、勤めていた広島高師(現・広島大)へ向かい、遺骨は不明。

福村 稔 福村 稔(13)
二中寮。実家は兵庫県尼崎市賀茂郡・西高屋小8月6日遺骨は不明。小学5年の時、父の親類がいた賀茂郡西高屋村(東広島市)に妹と疎開していた。45年10月20日、広島市草津本町の教専寺であった「学校葬」で分骨を受け取った兄敏雄は「16年後に、稔が似島で亡くなったのを、弟を看護した女性が伝えてくれました。『お姉さん、僕がここに居ることを必ず家族に連絡してください。尼崎の福村です』と言ったそうです」。

古川 喜佐登 古川 喜佐登(12)
安佐郡祗園町東山本(安佐南区)山本小8月7日母静江が7日午前8時すぎ、爆心930メートルの広瀬神社(中区広瀬町)近くで、わが子と分からないほど顔がはれ上がっていた長男を見つける。86歳の母は「敵機の音がすると、『お母ちゃん、早く防空ごうに入ろう』と申しました。被爆直後は服に火がつき、川に飛び込み、友達と『海行かば』を歌って夕刻まで川の中にいたなどと話し、担架に乗せようとした午前11時ごろ亡くなりました」と言う。

正木 侃 正木 侃(ただし)(12)
広島市牛田町神田区(東区)牛田小8月6日父稔が8日、本川に架かる新大橋東詰めの雁(がん)木に倒れているのを見つけ、9日、二中4年の兄滋と作業現場跡で、木々を集めてだびに付す。兄は「本川べりでは、20人から30人の生徒が崩れた家屋土塀の下敷きになっていたと思います」。

松井 昇 松井 昇(12)
安佐郡祗園町南下安(安佐南区)祗園小8月7日姉の夫で二中教諭玉田光人が運転するトラックで、重傷の同級生たちとともに佐伯郡平良村(廿日市市)へ。治療を受けた後に戻った自宅に、緑井村(安佐南区)から駆けつけた姉文子は「夫が作業現場跡で昇を見つけた時に名前を呼ぶと、震える手で敬礼をしたそうです。死ぬ前は教練のことを思い出していたのか、『前へ進め』『突っ込め』とうわ言を繰り返していました」。

南 清徳 南 清徳(きよのり)(13)
広島市吉島町(中区)千田小8月7日父清維と広島高(現・広島大)1年の兄碩哉が7日、新大橋の西約300メートル先の小網町付近で遺体を見つける。兄は「二中時代の僕の服を着ていたので分かりました。兵隊から『今朝まで生きていた』と言われ、周囲の電車軌道敷きの上には中学生の遺体がずらっと並んでいました」。

宮川 演男 宮川 演男(のぶお)(12)
高田郡市川村(安佐北区白木町)天満小8月6日広島商業学校4年の兄龍司が7日、広島赤十字病院の玄関前に並べられていた遺体の中から見つける。兄は「隣に横たわっていた中学生は生きており、弟と昨夜まで話をしたと言っていました」。母千代らともともと住んでいた西天満町でだびに付し、疎開先の市川村へ持ち帰る。

宮崎 義彦 宮崎 義彦(12)
広島市舟入本町(中区)長崎・南大浦小8月6日遺骨は不明。父元喜が44年、江波町に開所した三菱重工業広島造船所に転勤となったため、翌年に家族7人で転居していた。94歳の父は「出張していた長崎から急を聞いて引き返したが、娘の死に目にも会えませんでした」神崎小に通っていた妹の悦子(8つ)は7日、避難先の草津小で死去。

三好 正道(12)
広島市己斐町(西区)東京・成城中から転校8月6日父誠蔵らが捜すが、遺骨は不明。空襲が激しくなった東京都牛込区(新宿区)から4月末、母の郷里の広島に家族4人で移る。県立第一高女(現・皆実高)5年だった姉緋紗子は「泳ぎが得意な子で、学校帰りに同級生と川で遊んでいました。幼いころは学者になりたがっていましたが、陸軍幼年学校へ行きたいと言うようになっていました」。

森下 輝夫(29)
広島市堺町(中区)本川小62年49(昭和24)年発行の同窓 会誌に「戦災死者」とあり、61年建立の慰霊碑に名前が刻まれる。弟の博は「兄は入市被爆の後遺症か、腎臓(じんぞう)を患って死にましたが、当日は広島にはおらず、名前が刻まれたいきさつは分かりません」。

山崎 晃良 山崎 晃良(あきら)(12)
安佐郡可部町城(安佐北区)三田東小8月9日広島赤十字 病院にいるとの知らせを受けた父群三と母ハルコが9日、玄関前で見つけるが、午後1時ごろ死去。妹は「91歳になる母が言うには最期に『死にたくない』とつぶやいたそうです。当時のことは私も思い出したくありません」。

若本 信幸(13)
広島市宇品町(南区)宇品小8月7日父万助が6日、本川 の雁木に座っているのを見つける。被爆後、背中に火がつき、川に飛び込んだが、目が見えなくなって再び岸に上がったと話したという。姉千鶴子は「次は宇品がやられるかもしれないとのうわさが飛び交い、母と金輪島に運びました。陸軍運輸部の倉庫にはむしろが敷かれ、負傷者がイワシのように並べられていました」。7日朝、「お母さん、スイカが食べたい」と言って死去。

 
1学級詳細不明

 大崎 義夫
 木田 俊吾
 佐伯 知数
 長瀬 俊郎
 羽白  光
 原 富士夫
 藤岡  昭
 藤田 章三
 古田 英樹


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