ヒロシマの記録−遺影は語る
広島ニ中

99/11/16・17

爆心への幼き動員

 1年1学級  1年5学級
 1年2学級  1年6学級
 1年3学級  2年から5年・教職員
 1年4学級  新たに12人を確認 (99/11/27)
 新たに確認できた死没者 (2000/6/28)
遺品と資料

  広島市中区の平和記念公園の本川左岸にある慰霊碑=写真=は、おびただしい数の死没者を刻む。高さ一・五メートル、横五メートルの石碑の裏面をたどると、生徒三百四十四人、教職員八人の名前がある。「広島県立広島第二中学校」の戦災死者遺族会が三十八年前に建立した。死没者の多くは、原爆が投下された一九四五年に入学して間もない十二、十三歳の少年たちであった。

 六学級からなる一年生は八月六日朝、碑が立て旧中島新町にいた。国家総動員法により、本川に架かる新大橋(現在の西平和大橋)東詰め、中島地区一帯の建物疎開作業に動員されていた。整列し、引率教師の訓示が終わろうとするころ、原爆投下機エノラ・ゲイの機影が頭上にあった。

 爆心地から約五百メートル。少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われた。ある者はその場で息絶えた。意識を取り戻した者は、目の前の本川に飛び込んだ。

 六日夕、捜しに入った母親は「水際に至る迄(まで)重なるように重傷の子供充(み)ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあり」と、光景をとどめた。七日朝に着いた父親は「屍(しかばね)は既に膨張し、どれもこれも同じ様な容貌(ぼう)」と、焼け残りの着衣やベルトで息子を確かめるしかなかった。

 全身やけどで自宅にたどり着き、また救護所に運ばれた少年たちは、ひん死の中で父や母の名を呼び、友らの身を案じた。声を振り絞って軍歌を歌い、「天皇陛下万歳」を唱えた。「国のために尽くすことが当然という時代、教育でした。それでも、あこがれの二中に入学でき、懸命に生きていました」。八十代後半になる母や、応召や動員体験を持つ兄や姉たちは感慨を込めて話した。

 今回の「遺影は語る」は、広島二中の碑に刻まれた一人ひとりの最期を追った。学制改革の翌四八年に芸陽高校、四九年に現在の県立広島観音高校となった同窓会事務局が引き継ぐ記録や、未公刊の各種資料などを手掛かりに、遺族を捜した。少年たちは、どこで、いつ、どんな思いで亡くなったのか。手紙を送り、約五百人の協力を得た。

 その結果、碑に名前がある一年生三百二十一人について、二百六十九人に加え新たに判明した二人の二百七十一人の被爆死状況と、二人の生存が分かった。二年生以上や教職員を含む計三百五十二人については、呉空襲の犠牲になっていた二人を除く、計二百九十四人の原爆死没者を確認し、二百六十人の遺影の提供を受けた。

 正式には「広島二中報国隊」。中島の動員現場にいた一年生全員は、原爆が頭上でさく裂した六日後の十二日までに亡くなっていた。

(西本雅実、野島正徳、藤村潤平)