ヒロシマの記録−遺影は語る
中島本町U

誓い生んだ「死の世界」

99/08/03

 死没者名簿 

 死没者名簿(続) 

1945年8月6日の中島本町≠フ町並み(213KB)

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【注】1945 年8 月6 日の「中島本町」の街並みを、旧住民・遺族らの協力を得て、居住および、建物強制疎開(立ち退き)・移転が直接に確認できた世帯・事務所を復元、明記した。


 気温27度。湿度78%。広島の空は澄みわたっていた。

 1945年8月6日午前8時15分30秒。B29爆撃機エノラ・ゲイが「完ぺきな照準点」と呼んだT字型の相生橋を目標に投下した原爆は、43秒後、デルタの上空580メートルで爆発した。史上初の原子雲が1万7千メートルまでわき上がる中、元安川と本川に挟まれた「中島本町」は、広島は、壊滅した。

 相生橋が架かった慈仙寺鼻に住んでいた宮脇文恵さん(71)は「中島本町T」(7月13日付)の掲載後、東京から一通の手紙をよこした。「あの日」、中島本町37番地の自宅から女子挺(てい)身隊として出た三菱重工業広島造船所で被爆した。

 「生き残った私は、避難場所、収容所など母を捜しての毎日でした。みんな何処(どこ)に行ったの?何処に消えたの?仲良しの友達、その家族、近所の人達の消息。全く何一つ分からず、中島本町は死の世界でした」

 その中島・慈仙寺鼻に翌年の46年、「戦災死没諸霊供養」と書いた木碑と、市の礼拝堂が建つ。めぐり来た「原爆忌」に、市民たちは初めての追悼会を開く。礼拝堂は今、氏名が分からない約7万人の遺骨を納める平和記念公園の原爆供養塔になる。47年、慈仙寺鼻に建てられた木造の「平和塔」で、第1回の「平和祭」が挙行される。今に至る広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式の始まりである。

 浜井信三市長(68年死去)は、全国中継されたラジオ放送を通じ、第1回の「平和宣言」を読み上げる。「原子力を持って争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめた」と訴えた。「戦争の放棄と世界平和の建設」を誓った。

 今回は、旧中島本通り南側から原爆慰霊碑(52年建立)がある一帯に居住、勤務していた人々を追跡し、45年末までに亡くなった180人と、57年までの8人の計188人の被爆死状況が判明した。うち152人の遺影と、新たに見つかった北側の住民・勤務者3人の遺影を併せて掲載する。

 中島本町全体では、被爆死者は458人(うち46年から59年までの22人を含む)に上り、343人の遺影の提供と確認を得た。「あの日」、中島本町にいた住民の5人に4人が爆死していた。

 ヒロシマの祈りと訴えは「死の世界」中島本町から起こり広がった。

(西本雅実、野島正徳、藤村潤平)