中国新聞社


ヒロシマの記録−平和都市法50年

廃虚からの再建
 惨禍乗り越え 市民の力結集 
99/5/11   

 一九四五(昭和二十)年八月六日、投下された一発の原子爆弾により、広島は壊滅した。「七十年間は草木も生えぬ」。国内外でそう言われるほどの惨禍であった。肉親を失い、自らも傷つきながら、生き残った市民たちは、廃虚から立ち上がり、生活を、街を再建していく。気が遠くなるような復興の歩みを支えたのが五十年前の今日、四九年五月十一日に成立した平和記念都市建設法である。

 被爆から四年後、二十七万人にすぎなかった広島市の人口は今、百十二万人。爆心地の中島地区は、樹木が生い茂る平和記念公園が広がる。周囲にはビルが林立する。平和都市法が復興財源の礎となり、市民のたゆまぬ営みが、世界に平和の尊さを訴える「ヒロシマ」を形づくった。

 しかし、廃虚からの再建は、牛歩のごとく、また紆(う)余曲折をたどった。広島市出身の法曹家で参院議事部長時代、法案を起草した寺光忠氏(九六年死去)は、平和都市法成立を受けて中国新聞紙上にこう寄せた。

 「名だけが平和都市であるという事態になるのであっては(中略)国民を欺くものであり、世界の期待を裏切るものである」「設計図は構想され確立されたとしても、あとの運営が大変なのである」とつづり、「広島市民のすべてに利害を超えた高邁(まい)なる精神をもとめなければならない」と結んだ。

 平和都市法が冒頭にうたう「恒久平和を象徴する」都市として、ヒロシマがあろうとする限り、今も五十年前の問いを受け止め、こたえる務めがあると言えないだろうか。中国新聞社が保存する復興期の写真を中心に、ヒロシマ建設の歩みを見る。

(西本雅実)




広島平和記念都市建設法
(昭和二十四年八月六日 法律第二百十九号)
 
ヒロシマ復興支えた礎('99. 5.11)






爆心地の変遷

 広島原爆は、原爆ドーム(中央)の左側に当たる南東160メートル、上空580メートルで爆発した

爆心地の変遷

爆心地の変遷

爆心地の変遷

「爆心地の変遷」写真は3点ともつなぎ合わせによる     

(上)は文部省学術調査団の記録映画班員として広島入りした写真家、林重男氏が45年10月8日、焼け残った広島商工会議所4階屋上から撮影した爆心地一帯。爆風で、原爆投下の目標になった相生橋(右側)は北側の欄干が川に落ち、日赤広島支部(手前)の屋根は押し下げられた

(中)54年7月28日撮影。平和都市法の公布により、相生橋につながる中島地区は、ドームだけが残った旧猿楽町を含めて50年に、広さ12・2ヘクタールの平和記念公園として建設が着手された。が、行き場を失った被爆者らのバラックが、公園内に立ち並んだ。ドーム前にあるのは、昭和天皇の行幸を記念して47年に建てられた「平和記念塔」。ドーム向こうに建設中の原爆資料館、右隣に市公会堂が見える。

(下)は現在の広島商工会議所7階から、本社の梶谷正義カメラマンが今年5月7日撮影。平和記念公園は今、新緑の木々が茂る。相生橋は83年に架け替えられ、ドーム奥に写っていた広島沖の似島は、ビルに阻まれて見えなくなった。核兵器使用の惨禍から広島の再建を見守り続けるドームは96年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界遺産」に登録された



変更された原爆慰霊碑

変更された原爆慰霊碑
 52年8月建立された原爆慰霊碑。正式名称は「広島平和都市記念碑」という。当初計画では、ベルをつるした巨大なアーチだったが、市の予算難から変更、埴輪(はにわ)型に縮小される。米国人を母に持つ彫刻家イサム・野口氏(88年死去)のデザインは「原爆を落とした国の人間がつくるのは筋違い」と、広島平和都市建設専門委の反対に遭った。コンクリートづくりの碑は85年、現在の御影石に。52年5月撮影



紙芝居と子ども
紙芝居と子ども
 ぺんぺん草が生える平和記念公園で、紙芝居に見入る子どもたち。原爆で母や兄を奪われ、焦土からのヒロシマをレンズに収め続けた佐々木雄一郎氏(80年死去)が52年に撮影。子どもたちの後ろに、原爆資料館が見える。その前年に着工したが、予算不足から工事中断が続き、開館したのは55年8月。被爆で傷つき生活もままならぬ市民は、高床式の資料館を見て「鳥かご」とやゆした


被爆10年目の平和記念公園

被爆10年目の平和記念公園
 公園の設計は49年にコンペで行われ、応募145点の中から東京大助教授だった丹下健三氏らの共同作品が選ばれた。手前から、しゅん工した市公会堂(現在は広島国際会議場が建つ)、原爆資料館、平和記念館。公会堂は地元財界が発案し、ホテルを付設して建設したが「死没者の霊を冒とくする」との批判が出た。公園内の3つの施設を回廊で結ぶ「丹下案」は94年に実現した。55年3月17日撮影



無人の荒れ野
無人の荒れ野
 左側の倒壊したビルは爆心210メートル、中区大手町2丁目にあった広島瓦斯(ガス)本社。鉄筋3階建て、地下1階のビルは、天井と床が崩落し、職員約35人が死去した。中央奥は本川国民学校(本川小)。市民は、廃虚の中で、かわらや欠けた茶わんを拾うことから、生活を始めた。45年10月、本格調査のため広島入りした米戦略爆撃調査団の撮影


芸術論争を呼んだ平和大橋

芸術論争を呼んだ平和大橋
 米国の対日資金援助を受け、52年にできた平和大橋の完工式。西平和大橋とともに高欄のデザインは、後にパリのユネスコ日本庭園も手掛けたイサム・野口氏が担当した。平和大橋の高欄について、本人は「生きる」と名付けていた。斬新(ざんしん)奇抜なデザインから建設時には「イモ虫みたい。子どもが川へ落ちる危険がある」などと、市議会で「芸術論争」が交わされた。52年6月3日撮影



不興を買った平和大通り
不興を買った平和大通り
 南区の比治山から52年7月14日に撮影した平和大通り。全長5キロ、幅員100メートルの平和大通りの建設は、住宅難に悩む市民の不興をかった。被爆作家の太田洋子は『夕凪の街と人と』(53年刊)で、作中人物に「昼なお暗いほど、雑草にうずもれて、人通りもろくにありはしません」と語らせている。全通したのは東京五輪の翌年、高度成長期の65年だった



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