中国新聞社
2000/2/24

ヒロシマの記録−遺影は語る
  広島郵便局


死没者名簿・職員(その3)

橋本 シズコ 橋本 シズコ(31)
 広島市広瀬北町(中区)郵便課8月6日遺骨は不明。双三郡板木村(三和町)に学童疎開していた小学3年の長男博明は「引率の先生から9日に広島がやられたと聞き、翌早朝に疎開先の寺を一人抜け出しました。石炭を積んだ貨物列車に乗り、矢賀駅からは歩き、広島駅で重傷者のそばで野宿しました。独りぼっちになったんかなぁと泣きながら、母を捜して焼け跡を回りました」。

長女 佳代子(3)
 母に伴われていたらしく、遺骨は不明。兄は「父の応召後に生まれた妹は、父のひざに抱かれることもなく死んでしまいました」。

橋本 重三 橋本 重三(38)
 広島市打越町(西区)庶務課8月6日妻ヒサヨが捜すが、遺骨は不明。高田郡生桑村(美土里町)に学童疎開していた小学4年の長男尚幹は「父の机があった跡から愛用の湯のみが見つかり、縁が少し欠けたその湯のみを母と墓に納めました。母は父の実家があった山県郡大朝町で農家の手伝いをしながら私と妹を育て、78年に亡くなりました」。

長谷川 作一 長谷川 作一(52)
 安芸郡府中町砂原庶務課長8月6日妻ミサオと三男允が7日早朝に入り捜すが、遺骨は不明。松本工業(現・瀬戸内高)3年だった三男は「手足の指が焼け落ちている黒焦げのおびただしい死体に足をすくませながら、午前6時ごろ、まだ火の粉が舞う局舎跡にたどり着きました。父の死を受け止めました」。

濱村 ヲクマ(42)
 広島市楠木町4丁目(西区)庶務課8月6日遺骨は不明。隣に住んでいためいは「伯父が召集されたため、打越町にあった郵便局員らの独身寮で炊事をしていました。5日晩は寮の泊まり勤務で、炊事場のはりの下敷きになっていた伯母らしい女性がいたと、打越町の人から聞きました」。

原 伴恵 原 伴恵(19)
 安佐郡川内村(安佐南区)貯蓄業務課8月6日母ナツノが捜すが、遺骨は不明。46年に復員した兄繁樹は「妹は広島市内で住み込みで和裁の仕事をしていましたが、戦況が厳しくなったためか、郵便局に勤めるようになったようです」父小太郎(55)は「川内村義勇隊」として、現在の平和記念公園南側一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

原田 梅一(54)
 広島市打越町(西区)貯金保険課8月6日妻ヒサヨが捜すが、遺骨は不明。小学5年だった三女澄枝は「保険の事務をしていた父は、書類で膨らんだ黒い革のカバンを持ち帰り、家で残業をすることもありました。5日夕から泊まり勤務だったそうです」。

平岡 末寛 平岡 末寛(48)
 広島市牛田町(東区)検閲課長8月6日妻ヱミヨと長女和子らが捜すが、遺骨は不明。17歳だった長女は「空襲といえば当時は焼い弾くらいしか想像できず、父は『火が燃え広がっても、近くの川へ逃げ込むから心配するな』と家族に言っていました。原爆の直下にいては逃げる間もなかったと思います」母ミツ(88)は爆心2・3キロの自宅で下敷きとなり、23日死去。

平末 淳 平末 淳(きよし)(38)
 広島市京橋町(南区)貯蓄業務課8月6日妻照子と、同居していた広島工専(現・広島大)1年のおい加藤義典が捜すが、遺骨は不明。おいは「叔父は6日朝、『警戒警報が解除になったようだな』と言って家を出ました。市内は空襲があるので実家の双三郡吉舎町へ戻り、地元の日彰館中学校の教師になる話を進めていました」。

福田 俊治 福田 俊治(17)
 佐伯郡河内村(佐伯区)貯蓄業務課8月6日父祖六らが7日に入るが遺骨は不明。戦後生まれのめい美穂子は「叔父は夏風邪をひき、しばらく局を休み、6日から出勤したそうです。もう一日休んでいたら…と祖父や、姉に当たる私の母はよく話していました」。

福原 時次郎 福原 時次郎(36)
 広島市牛田南町(東区)郵便課8月6日妻シナヨが生後10カ月の長男を背負って捜すが、遺骨は不明。80歳になる妻は「爆風で倒壊した自宅跡を片付けると、夫の字で封筒に『遺言状』としたためた中から頭髪とつめが出てきました。召集、空襲と死と向き合って暮らしていた時代ですから、万一を考えて残していたのでしょう。今も仏壇の奥に納めています」。

名前 藤井 健次(40)
 広島市空鞘町(中区本川町3丁目)郵便課8月6日遺骨は不明。広島市女(現・舟入高)1年だっためいの吉積登志子は「伯父は原爆の8年前に死んだ奥さんとの間にできた一人息子をかわいがり、趣味のカメラを携えて息子とよく写真を撮っていました」長男賢(12)は自宅近くで被爆し、遺骨は不明。母ミツ(58)は運ばれた安芸郡安村(安佐南区)で23日死去。

藤川 利登 藤川 利登(35)
 広島市水主町(中区住吉町)貯金保険課8月6日妻トラヨが被爆後に捜すが、遺骨は不明。85歳になった妻に代わり、長男一紘は「父は、幼かった私が大人になるのを待ちきれずにビールを飲ませたことがあったと母から聞いたことがあります。被爆50周年からは毎日、西区三滝町にある墓参りを続けています」。

藤田 清子 藤田 清子(21)
 広島市河原町(中区)貯蓄業務課8月6日兄俊雄が自宅で被爆後に捜すが、遺骨は不明。小学1年だった妹澄子は「原爆供養塔の納骨名簿が公開される夏になると、姉の名前を捜しています。遺骨がないので、ふらっと帰って来るのでは、と思うことがあります」和服洗い張りの父俊一(49)は自宅で被爆し、27日死去。母シゲノ(42)は自宅で爆死。弟照美(16)は遺骨不明。明道(15)は草津小の救護所で9月2日死去。

藤田 ミサヱ(24)
 広島市西観音町1丁目(西区)貯金保険課8月6日夫政次が捜すが、遺骨は不明。サツマイモの買い出しに能美島へ行く途中の皆実町で被爆した夫は「配給に頼るだけでは家族3人の食糧は足らず、妻は生後間もない長女を連れて勤めるようになり、保険の勧誘に回っていました」。

長女 早智子(2)
 父政次が7日朝、局西隣の土手に倒れていた幼児とみられる20数体のうちから、着衣のボタンと弁当を包み背負っていたふろしきの柄で遺体を確認。

舩田 常盤 舩田 常盤(18)
 広島市横川町(西区)の姉宅。実家は双三郡板木村(三和町)貯蓄業務課8月6日父愈太郎が向かうが、遺骨は不明。小学6 年だった弟明義は「姉が帰省した際、イノシシを狩る猟犬がコメを口にしていたのを見て『私が代わりたい』と冗談を言ったのを覚えています。街では、飼料用の大豆の搾りかすまで食べているのを聞き、子ども心に不思議に思いました」。

芳我 キヨ他 芳我 キヨ(52)(左)
 広島市鉄砲屋町(中区本通)の「錦水寮」庶務課8月6日遺骨は不明。46年にインドネシアから復員した長男真彦は「父が倉敷郵便局長から45年初め、広島逓信局(現・中国郵政局)の幹部職員宿舎として使われていた錦水寮の寮長に就いたため、母と妹は広島郵便局の庶務課員として働いていました」広島逓信局監理課所属の夫雄一(60)=中=は、妻子とともに寮内で被爆し、遺骨は不明。

芳我 淑子(27)(右)
 広島市鉄砲屋町庶務課8月6日遺骨は不明。兄真彦は「家族4人が洗礼を受けており、召集で42年にシンガポールへ向かった私のために妹も賛美歌を歌って、駅に見送りに来ました。それが最後の別れとなりました」。

増田 ハツエ 増田 ハツエ(17)
 安佐郡深川村(安佐北区)庶務課8月6日母アサコが、郵便課にいた森本スズエの母とともに深川村から向かうが、遺骨は不明。勤めていた陸軍兵器補給廠(南区霞1丁目)で被爆した弟博は「姉は給仕係からタイピストとして本採用となり、家に書類を持って帰ることもありました。職場の課長さんから、嫁に来ないかと冗談を言われるほど見込まれていたようです」。

増田 秀穂 増田 秀穂(38)
 広島市中広町(西区)郵便課8月6日妻シゲノと長女和枝が捜すが、遺骨は不明。小学3年だった長女は「戦後は母の郷里の佐伯郡友和村(佐伯町)に戻り、母はパン屋などで働きました。父は家に尺八やバイオリンを置く音楽好きでした。母は私を育てるのに精いっぱいで、父の話をすることはありませんでした」。

松井 巌 松井 巌(35)
 広島市段原新町(南区)郵便課8月6日妻シゲコらが捜すが、遺骨は不明。86歳になる妻は「実家の両親に止められ、局舎跡に入ったのは1週間後でした。白骨ががれき跡に入り交じり、地下室からは死人のにおいが立ちのぼっていました。まさに地獄のようでした」。

松浦 清一郎(34)
 広島市楠木町1丁目(西区)郵便課8月6日遺骨は不明。爆心1・6キロの自宅で被爆し、86歳になる妻マツ子は「夫は、妊娠7カ月で身重な私を気遣って『もしものことがあったら、子どもたちを連れてすぐに逃げろ』と家を出ました。戦後は、失対労働や人の畑の草取りなどをして、5人の子どもを育てるのに必死でした」。

松崎 千鶴子 松崎 千鶴子(26)
 広島市皆実町(南区)貯金保険課8月6日母タミと妹悦子が捜すが、遺骨は不明。妹は「姉は女子てい身隊に徴用され、4月から広島郵便局に勤めていました。一緒に働いていた祇園高女の生徒さんを『甘いものが手に入ったから』と自宅に連れてくる面倒見のよい姉でした」。

松田 治久(16)
 広島市天神町(中区中島町)郵便課8月6日遺骨は不明自転車店経営の父助市(47)は、平和記念公園となった天神町の自宅で爆死し、遺骨は不明。女子てい身隊の姉蓮江(18)は西練兵場(中区基町)に出て遺骨は不明。(注・遺影は98年10月15日付の「天神町北組」編で掲載)

松室 恒子 松室 恒子(20)
 広島市小網町(中区)庶務課8月6日父武一が捜すが、遺骨は不明。姉泰子は「4人きょうだいの末っ子ながら、しっかり者でした。結婚したときに困らないようにと、自分の着物や反物を母の実家がある岡山に疎開させていました。見合い用に日本髪を結って撮った写真が、妹の遺影となりました」母靜(52)は自宅で爆死。

丸子 文三(47)
 広島市鷹匠町(中区本川町2丁目)貯金保険課8月6日長男が入院していた市舟入病院(中区)で被爆した妻ヒサコが捜すが、遺骨は不明。消防署員だった長男幹夫は「父は5日夜に見舞いに訪れて『はよう元気になって一緒に頑張ろうや。わしは百まで生きてみせるで』と励ましてくれました。結核を患った父の弟の入院費を出すため、手放した家と土地を買い戻そうと働いていました」西警察署(中区大手町1丁目)勤務の長女百合子(20)は、運ばれた父の郷里、安芸郡矢野町(安芸区)で19日死去。市立中1年の三男時彦(13)は小網町の建物疎開作業に動員され、遺骨不明。

三上 白爾 三上 白爾(49)
 広島市東雲町(南区)郵便課8月6日妻玉野が捜すが、遺 骨は不明。比婆郡敷信村(庄原市)に学童疎開していた小学3年の三男嘉彦は「郵便列車に乗務していた父は、非番の日でもよく呼び出されました。私を映画館へ連れて行く約束をした日、局からの電話を取り次いでいた近所の奥さんが呼び出しを伝えに来ると、父は『留守だと答えてくれ』と母に目配せし、それで一緒に映画を見ることができました」。

宮河 信三 宮河 信三 (21)
 佐伯郡地御前村(廿日市市)郵便課8月6日父春次と母カ ンが捜すが、遺骨は不明。いとこの二男清は「母親のカンさんは、一人息子の死にすっかり気落ちし、後を追うように9月24日に亡くなりました。61歳でした」。



三宅 晴一 三宅 晴一(44)
 広島市舟入本町(中区)貯金保険課8月6日長男良正が南 観音町の三菱重工業広島機械製作所で被爆後に捜すが、遺骨は不明。長男は「7日昼ごろ細工町に入りました。局舎跡の地上部は遺体が一つも見当たらず、全員が埋まっているのだと思いました。くすぶり続けるがれきを前に、掘り返す気になれませんでした」長女暉子(17)は爆心1・5キロの自宅で被爆し、広島第一陸軍病院江波分院で21日死去。

宮本 志真子(15)
 広島市皆実町(南区)庶務課8月6日父浅五郎と母ウメコ が捜すが、遺骨は不明。弟勝司は「姉は街中にある郵便局を希望し、今の翠町中を卒業して入ったばかりでした。両親は、自宅近くの専売局に勤めていれば助かったのでは…と悔やんでいました」第三国民学校(現・翠町中)1年の妹幸子(12)は、雑魚場町(中区国泰寺町)一帯の建物疎開作業に動員されて9月26日、自宅で死去。

村上 勝子 村上 勝子(18)
 安佐郡安村(安佐南区)貯蓄業務課8月6日遺骨は不明。 義母のめい入野和子は「私の叔母が、妻を失った勝子さんの父から子どもたちの面倒をみてほしいと言われて村上家に入りました。郵便局跡の灰を持ち帰って葬儀したそうですが、その叔母も5年前に他界しました」。
死没者の氏名(年齢)
職業遺族がみる、また確認した被爆状況1945年8月6日の居住者(応召や疎開は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)

村瀬 保 村瀬 保(17)
 広島市牛田町(東区)郵便課8月6日母リヨが捜すが、遺 骨は不明。広島女子商3年だった妹民江は「私が動員先の中国塗料から帰宅途中の5日夕、饒津神社近くの土手で、宿直勤務に向かう兄に会いました。気を付けて、と声を掛けたのが最後の会話になりました」父正重(59)は、水主町(中区加古町)にあった勤務先の炭鉱造機で建物の下敷きとなり、運ばれた自宅で20日死去。上流川町(中区鉄砲町)のタイピスト養成所に通っていた姉百子(23)は、自宅で10日死去。

村田 茂喜 村田 茂喜(24)
 広島市十日市町(中区)貯蓄業務課8月15日爆心700 メートルの自宅で被爆後、広島市大芝町(西区)の姉夫婦宅へたどり着くが、15日朝死去。義兄の満は「高熱にうなされ『トマトが食べたい。川につかりたい』とうわ言を言い、真っ黒い便をして死にました」母マサ(60)と、安田銀行(現・富士銀行)広島支店勤務の妹菊枝(20)は自宅で爆死。広島中央電話局勤務の兄恒良(35)は、爆心540メートルの下中町(中区袋町)の局で被爆し、収容された安佐郡古市町の嚶鳴小(現・古市小)の救護所で17日死去。

守木 行登 守木 行登(31)
 安佐郡祇園町長束(安佐南区)郵便課8月6日妻スエコが 3人の幼子を連れて9日から捜すが、遺骨は不明。4歳だった長男照彦は「母一人に負担は掛けられず、中学を終えると、近くの理髪店に弟子入りし、今の仕事に就きました。同級生が高校や大学へ進むのを見たり、聞いたりすると、若いころはやはりうらやましくなりました」。

森崎 佐市 森崎 佐市(55)
 広島市三篠本町2丁目(西区)庶務課8月6日長女光子ら が捜すが、遺骨は不明。自宅で被爆した長女は「父はあの日朝、かめに入れていた預金通帳や債券を一つの通帳にまとめようと、すべてを腹巻きに入れて出勤しました。広島に爆撃が近々あるとの話を聞きつけ、家族で相談したことでした」志願兵で大阪にいた二男春三(21)は4日に帰郷し、研屋町(中区紙屋町1丁目)の旅館に泊まっていて、遺骨は不明。

森田 晃寿 森田 晃寿(24)
 広島市段原新町(南区)貯蓄業務課8月6日父義登と母か ず代が捜すが、遺骨は不明。2歳年下のいとこ靜男は「晃寿さんは自宅で書道教室を開き、近所の子どもたちに教えていました。原爆で一人息子がいなくなったため、私が森田の家を継ぎました」。

森本 スズエ(20)
 安佐郡深川村(安佐北区)郵便課8月6日安佐郡祇園町の 祇園小に駐屯していた工兵隊員の夫実が捜すが、遺骨は不明。82歳になる夫は「私が8月2日に召集されたため、広瀬元町の住まいから深川村の実家に移り、6日に長女を連れ再び出勤しました。市内は危ないと忠告する知人に『死ぬなら、この子と一緒に』と話していたそうです」。

長女 由美子(2)
 局舎内の育児室で爆死、遺骨は不明。

安井 明二 安井 明二(あきじ)(42)
 広島市東白島町(中区)庶務課8月6日妻トモが捜すが、 遺骨は不明。92歳になる妻に代わって、小学1年だった長男健一は「父が通勤に使っていた自転車をいたずらしてタイヤの空気を抜き、しかられたのが思い出です。6日は酒の配給日で、帰宅を楽しみに出たそうです。職場では主事を務め、部下を家に招いていたと聞きます」。

安田 春美(20)
 広島市打越町(西区)貯蓄業務課8月6日遺骨は不明。

休見 ミチ子 休見 ミチ子(22)
 広島市中広町(西区)貯蓄業務課8月6日父次郎と母アサ ヨが爆心800メートルの自宅で被爆後に捜すが、遺骨は不明。高田郡生桑村(美土里町)に学童疎開していた小学5年の妹扶美子は「姉はそろばんが得意で、手巻き式の蓄音機で読み上げ算用のレコードをかけては練習していました。徳島県で秋に予定されていたそろばん大会に、広島郵便局を代表して出場することになっていた、と母から後に聞きました」。

山縣 多三郎 山縣 多三郎(48)
 広島市三篠本町1丁目(西区)貯金保険課8月6日妻ハヤ メらが捜すが、遺骨は不明。96歳になる妻に代わって、二男巖は「安佐北区にあった伯母の家に疎開していた私が5日に帰ると、父はそれは喜んで抱き上げたそうです。6日朝は、出勤の途中になぜか引き返して『子どもたちを頼む』と、母に念を押すように話したと言います」。

山口 榮(36)
 広島市新市町(中区西十日市町)郵便課8月29日6日は非 番のため、爆心800メートルの自宅で下敷きになり、子どもたちと、たどり着いた郷里の双三郡三次町(三次市)で死去。佐伯郡砂谷村(湯来町)に学童疎開していた小学4年の二男滋は「『勝つまでは頑張りなさい』との便りがありました。母の最期をみとれず、親不孝をしたと今も思います」母が助け出した実践高女4年の長女友子(16)は28日、二女紀代子(5つ)は17日に三次町で死去。市立造船工業学校(現・市商業高)1年の長男和久(13)は中島新町(平和記念公園)での建物疎開作業に動員され、自宅にいた三男勝三(2つ)とも遺骨は不明。

山口 常人 山口 常人(36)
 広島市大手町7丁目(中区)郵便課8月6日遺骨は不明。 8月17日に生まれた長男常男は「父は配達業務の途中に拾った針やヘアピンを持って帰っては、母に『今日も見つけたぞ』とささいな事柄でもよく話していたと聞いています」。

山田 クミヱ 山田 クミヱ(14)
 佐伯郡小方村(大竹市)貯蓄業務課8月6日父五一と姉ミ チヨが7日昼に入り捜すが、遺骨は不明。姉は「妹は43年に採用試験に合格し、逓信講習所で半年間の研修を終えて勤めていました。たどり着いた局舎は、正面玄関石段の左後方にあった地下室入り口と思われる所から、炎が外に噴き出していました。道々に遺体があるのに局舎跡には見当たらず、不思議な気がしました」。

山田 美智枝 山田 美智枝(26)
 広島市三篠町4丁目(西区)郵便課8月6日結婚して呉市 にいた妹幸子らが捜すが、遺骨は不明。「独身だった姉は徴用となり、『お国のために本局の受付で働いているのよ』と話していました」



山田 義雄 山田 義雄(35)
 広島市仁保町青崎(南区)貯蓄業務課8月6日妻春枝らが 捜すが、遺骨は不明。沼隈郡松永町(福山市)に縁故疎開していた小学4年の長男仁志は「元中尉の父は、在郷軍人会の会長を務め、町内で軍事教練の指導もしていました。父がりりしく着ていた軍服は母が仕立て直し、私の小学校時分の制服となりました」。

山中 フジヱ(16)
 賀茂郡志和堀村(東広島市)貯蓄業務課8月6日父逸次と 母オフデが捜すが、遺骨は不明。

山本 清次郎(58)
 広島市東観音町2丁目(西区)庶務課8月6日爆心3・7 キロの三菱重工業広島機械製作所で被爆し、8日ごろ入った二男昇は「局舎跡で出会った職員が言うには、父は地下室にいて、原爆の後に駆け付けた職員に『山本清次郎はここにおります。『家が気になるから見てきます』と歩いて帰ったそうです。生きていたというのに、遺骨も見つからないのは残念でなりません」妻イチ(51)は外出し、遺骨は不明。

柚田 喜和雄(36)
 不明郵便課8月6日広島市が毎夏に公開する遺族の引き取 り手のない原爆供養塔納骨名簿に、同姓同名・同年齢が記載されているが、めいは「事情を知る人がおらず、確かめたいとは思いません」。

湯藤 憲一(58)
 広島市西観音町2丁目(西区)貯金保険課8月6日妻ハツ ノと二女シズ子が捜すが、遺骨は不明。似島小教師だった二女は「父は骨とうの仕事を日米開戦のころ畳み、局へ勤めるようになりました。広瀬北町の自宅が建物疎開となったため、4日、5日と休み、西観音町の借家に荷物を運びました。翌朝、もう一日休みを勧める母に『今日はとにかく行かなくては』と出ました。気まじめな父でした」。

横田 フサコ(30)
 広島市立町(中区)貯蓄業務課8月6日門司鉄道局(北九 州市)に勤めていた兄英雄が帰って捜すが、遺骨は不明父幾三郎(77)、母タキノ(71)、兄章(51)、章の妻トヨノ(46)の4人は爆心600メートルの自宅で爆死。父を除く3人が遺骨不明。

横田 美子(25)
 広島市猿楽町(中区大手町1丁目)検閲課8月6日兄三郎 が捜すが、遺骨は不明。義姉テル子は「美子さんは原爆の6年前に父を亡くし、牛田町の私たちの家に遊びに来ては『テル子さんに兄を取られてしまったわ』と、冗談まじりに話していました」。(注・遺影は97年7月23付の「猿楽町」編で掲載)

吉岡 清光 岡 清光(38)
 広島市千田町3丁目(中区)貯金保険課8月6日妻サダ子 が爆心2キロの自宅で被爆後に捜すが、遺骨は不明。90歳になる妻は「工面して建てた家が原爆の直前に建物疎開と決まり、『空襲で焼けるのなら、あきらめもつくが…』と男泣きしていました。家族6人の生活を案じていたのだと思います」(注・肖像画)

吉岡 直義 岡 直義(48)
 広島市大手町8丁目(中区)保険貯金課8月6日松江市の 陸軍航空部隊にいた長男博が復員後に捜すが、遺骨は不明。「自宅には、保険契約の業績をたたえた額入りの表彰状が十数枚あり、父を誇らしく思っていました」町内で被爆した二女芳子(17)と、三女で大手町小6年の學子(みちこ)(12)、同居していた妹マスヱ(37)は、直義の郷里である安芸郡下蒲刈島村向(蒲刈町)に運ばれ、それぞれ9月7日、6日、15日に死去。

吉竹 チヨミ 吉竹 チヨミ(18)
 安佐郡緑井村(安佐南区)貯蓄業務課8月6日母トヨメが 向かうが、遺骨は不明。爆心2・3キロの荒神小で被爆した弟理三は「前の晩、姉が灯火管制の暗い電球の下でモンペを縫っていたのが、私にとって最後の姉の姿です」。

吉竹 芳雄 吉竹 芳雄(31)
 安佐郡八木村(安佐南区)貯蓄業務課8月6日父利作が向かうが、遺骨は不明。83歳になった妻フユコは「乳飲み子の長女を抱え、私は捜したくても捜せませんでした。くよくよするゆとりなどなく、機械工場などに勤めて一人娘を育てました」。



米田 廣子(24)
 広島市堀川町(中区)貯蓄業務課8月6日父準造と母テル ヨが、疎開していた高田郡本村(美土里町)から向かうが、遺骨は不明。召集で山口県にいた兄勝は「妹は、基町の広島第一陸軍病院内の局分室に勤務していたと戦後に関係者から聞きました。私は、その跡に建った市の高層アパートに住んで今年で10年になります」。

若尾 ミツヨ 若尾 ミツヨ(39)
 広島市西観音町1丁目(西区)貯金保険課8月6日佐伯郡 地御前村(廿日市市)の旭兵器製作所工場に動員されていた、実践高女(現・鈴峯女子高)3年の長女スミ子らが7日に入るが、遺骨は不明。「父が病死後も、母は実家の薬局を切り盛りしていましたが、原爆の1年前から勤めるようになりました。保険の勧誘に使う紙芝居を自宅で広げ、私と弟の前で練習していました」母岡田ハル(67)は、爆心1・5キロの自宅ではりの下敷きとなって死去。

脇本 勉 脇本 勉(33)
 広島市河原町(中区)貯金保険課8月6日遺骨は不明。佐 伯郡深江村(大柿町)に8月初め祖父母と疎開した小学6年だった長女孝子は「父は勤務があるので一人家に残りました。私が5歳の時に他界した母に代わり、仕事から戻ると、毛糸のセーターを私のために編んでくれました。1年くらいかかったでしょうか。白いラインを入れた襟を付け…。忘れられない父のセーターです」。

渡部 勇 渡部 勇(22)
 広島市左官町(中区十日市町1丁目)に下宿。実家は賀茂郡豊栄村(豊栄町)貯蓄業務課8月6日母セツヨらが捜すが、遺骨 は不明。広島貯金支局に勤めていた妹ミチ子は「5日夕、猫屋町にあった貯金支局の寮へ戻る途中に兄と出会いました。兄は『今夜は防空当番だ』と話していたので、おそらく宿直明けの局内で死んだと思います」。

渡邊 幸子 渡邊 幸子(21)
 広島市三篠本町2丁目(西区)貯金保険課8月6日遺骨は 不明。自宅で被爆した長女朱美は「父が召集され、1歳だった私の世話を祖母に任せて勤めていたそうです。祖母も原爆症で翌年に他界し、戦後は事情があって別々に暮らした父と30年ぶりに再会した際に初めて母のことを聞きました」父大田直一(年齢不明)は外出先で被爆し、遺骨は不明。母イト(57)は三篠本町の自宅で被爆し、46年死去。


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