中国新聞社
2000/2/24

ヒロシマの記録−遺影は語る
  広島郵便局


死没者名簿(祇園高等女学校4年・本川国民学校高等科2年)
 【祇園高等女学校4年】
石田 ヤヨイ 石田 ヤヨイ(15)
 安佐郡祇園町南下安(安佐南区)8月6日母リノと姉京子が捜すが、遺骨は不明。姉は「妹は5日、帰りの下祇園駅で、身分証明書を携帯していなかったため定期券が一時預かりとなり、6日は、私が工面した切符で向かいました。切符を手に入れたのが、あだになってしまいました」。



井手本 百合江 井手本 百合江(16)
 安佐郡古市町東野(安佐南区)8月6日父工が捜すが、遺骨は不明。朝鮮総督府に勤務していた兄護は「妹は、忠清北道清州にいた私に『休み時間に窓口に並んで、1枚ずつこのはがきを買いました。たまには家に手紙を送ってください』と添え書きして、はがき10枚を送ってきたこともあります」。



上野 正枝 上野 正枝(16)
 広島市大芝町(西区)8月6日父久一が捜すが、遺骨は不明。広島中央電話局(中区袋町)に勤め、当日は非番だった姉文枝は「窓口勤務の妹は、筋向かいの島病院の看護婦さんたちが包帯などを持って来ると、代わりに切手やはがきを優先的に売っていたと話していました。手に入りにくいものを融通し合っていたのだと思います」。



大下 松枝(16)
 安佐郡祇園町南下安の祇園高女寮8月6日広島鉄道局に勤めていた兄五十三が捜すが、遺骨は不明。フィリピンで現地召集となり、ルソン島から復員した兄正満は「私たちきょうだいは、日本移民が多かったルソン島北部のバギオで生まれ育ちました。妹は日本で教育を、との父の考えで、小学生のころ戻りました。その父は米軍の攻撃を逃げて入った山中で45年6月、栄養失調で死にました」。

大畠 文枝 大畠 文枝(16)
 安佐郡祇園町西原(安佐南区)8月6日母シズと祇園高女2年の妹靜江が捜すが、遺骨は不明。妹は「姉は切手やはがきを売る仕事に就き、動員から戻ると、『近くの島病院の看護婦さんたちが窓口に来ては、偉いね、頑張ってるねと褒めてくれる』と喜んでいました。大きな声で毎朝『行ってくるけんね』と小走りに家を出ていました」。

大原 ツヤ子 大原 ツヤ子(15)
 安佐郡古市町東野(安佐南区)8月6日父正登が6日夕、警防団のトラックで向かい捜すが、遺骨は不明。女子てい身隊として三菱重工業第20製作所にいた姉正江は「父は日が暮れると、妹のことを思い出しては『姿形も見えんようになってしまった』。目を赤く染めていました」。



岡田 道江 岡田 道江(15)
 広島市横川町2丁目(西区)8月6日母ヒナらが捜すが、遺骨は不明父齊(50)は、町内の義勇隊員として出た爆心900メートルの小網町の建物疎開作業中に被爆し、8日死去。



岡原 三四子 岡原 三四子(みよこ)(15)
 安佐郡祇園町南下安(安佐南区)8月6日母ツネヨと、爆心1・7キロの校舎で被爆した広島女子高師(現・広島大)1年の姉伸子が捜すが、遺骨は不明。93歳になる母に代わって、姉は「妹はよく近所の友達を誘い、三滝町(西区)にあった陸軍病院分院に負傷兵を見舞い、郵便局に出た学徒の班長に選ばれるなど、先頭に立って行動する子でした」県歯科医師会職員の父政太郎(48)は、平和記念公園となった天神町の事務所で爆死。



岡村 富士恵 岡村 富士恵(16)
 安佐郡緑井村(安佐南区)8月6日兄治正が捜すが、遺骨は不明。兄の妻厚枝は「6日朝は、鏡台の前で日の丸の鉢巻きを何度も締め直しながら『お姉さん、ちゃんと真っすぐになってる?』としきりに尋ねました」。



川田 満枝 川田 満枝(16)
 安佐郡祇園町長束(安佐南区)8月6日遺骨は不明。姉惠美子は「満枝は6日朝、母に『お友達と一緒に撮ってもらった写真を持って帰るけんね』と言って、防空ずきんを手に、姉の恒子と急ぎ足で出たそうです」母シノフ(46)は、夫と手こぎ舟で市内へ向かう途中、爆心1・5キロの三篠橋近くで被爆し、25日に自宅で死去。姉恒子(18)は勤務先の広島郵便局勤務で被爆し、遺骨は不明。

河本 富士子 河本 富士子(15)
 安佐郡可部町(安佐北区)8月6日父亀三郎と母美代子が捜すが、遺骨は不明。小学3年だった弟文男は「6日朝、姉は『げたの鼻緒が切れた』といったん帰って来ました。母が縁起が悪いと引き留めたにもかかわらず、履く物をかえて出て行ったそうです」。

木村 幸子 木村 幸子(15)
 安佐郡祇園町西原(安佐南区)8月6日母ヤスノが捜すが、遺骨は不明。応召中だった兄次男は「両親は生前、多聞院での郵便局慰霊祭への参列を欠かしませんでした」。



幸本 佐惠子 幸本 佐惠子(15)
 安佐郡祇園町長束(安佐南区)8月6日東京から帰省していた無線電信講習所生の兄昭二らが捜すが、遺骨は不明。兄は「妹から『私は学徒動員で学校に行っていません。お国のため広島郵便局で働いています。お兄さんも頑張ってください』と書いた便りが届いたのを、今もはっきりと覚えています」。

佐伯 敏子 佐伯 敏子(16)
 広島市打越町(西区)8月6日父庄市が捜すが、遺骨は不明。鶴見町の建物疎開作業に動員されていた市立第一工業学校(戦後に廃校)1年の弟正男は「母は4年前に95歳で死ぬまで、『行ってきますと手を振って出た姿が目に浮かぶ』と折に触れ、口にしていました」姉ふみゑ(19)は塚本町(中区本川町・堺町)にあった勤務先の製紙会社で被爆し、遺骨は不明。

佐々木 政子(16)
 安佐郡古市町(安佐南区)8月6日父政人と母アサ子が捜すが、遺骨は不明。小学3年だった妹光子は「4人姉妹の長女だった姉は、動員作業で疲れているのに、食糧増産で忙しい母に代わって私たち妹の食事の支度をしていました」。

佐々木 三枝子(16)
 安佐郡古市町(安佐南区)8月6日母ユヅヨが捜すが、遺骨は不明。

島本 年枝 島本 年枝(15)
 安佐郡祇園町長束(安佐南区)8月6日母サダノが捜すが、遺骨は不明。46年に中国から復員した兄良雄は「3人きょうだいが私一人になっていました。海軍にいた弟に続いて、広島にいた女学生の妹まで死んでいるとは思いもしませんでした」。



新具 サダ子 新具 サダ子(15)
 安佐郡祇園町東原(安佐南区)8月6日父正次郎らが6日入るが、遺骨は不明。弟は「姉は小柄だったので、父が跡にあった細い骨を選んで持ち帰り、墓に納めました」広島税務署(現・広島国税局・中国財務局)勤務の兄整(18)は、出勤途中に被爆したとみられ、遺骨は不明。

田上 時子 田上 時子(16)
 安佐郡安村(安佐南区)8月6日母ミツキと祇園高女1年だった妹邦枝が捜すが、遺骨は不明。妹は「数学の宿題をよく手伝ってもらいました。姉は『自分で考えなさい』と言っても、私がうそ泣きをすると丁寧に教えてくました」父倉次郎(55)は地域義勇隊として爆心1キロの水主町(中区加古町)一帯の建物疎開作業に出て被爆し、たどり着いた自宅で7日死去。

田川 ミサコ 田川 ミサコ(15)
 安佐郡祇園町長束(安佐南区)8月6日母静枝と祇園高女1年の妹サヨ子らが7日午後入るが、遺骨は不明。妹は「局跡のがれきの下から出てきた骨を少し分けてもらい、墓に納めました」芸備銀行(現・広島銀行)勤務の父数一(53)は、爆心480メートルの塚本町(中区堺町1丁目)の支店に出勤し、遺骨は不明。

龍花 積穗 龍花(たつはな) 積穗(39)
 安佐郡三入村下町屋(安佐北区)国文教師8月16日学徒引率者として向かう途中の市内電車内で被爆し、16日午後2時ごろ自宅で死去。86歳の妻世は「わずかにあった白米をたいてカボチャの煮物を添えても、夫ははしを持つ手が震えて口に運べません。最期に『気を強く持って、4人の子どもを大きくしてくれ』と言いました。田を耕しながら保母や清掃などの仕事もして、全員を高校まで行かせました」。

土井 豊子 土井 豊子(16)
 安佐郡古市町(安佐南区)8月6日父兼登と母ヤエノが捜すが、遺骨は不明。芸備銀行本店に出勤する途中の横川駅近くで被爆した姉冨士子は「一つ違いの妹は、学校や友達のことはよく話しましたが、動員作業の様子はあまり口にしませんでした。銃後の守りを果たして戦死したのだと思っております」。

土井 安子 土井 安子(15)
 安佐郡祇園町西原(安佐南区)8月6日母ミツヨが捜すが、遺骨は不明。姉文慧は「父が病死していたので、妹は『学校を卒業したら、そのまま広島郵便局に就職してお母さんを楽にしてあげたい』と話していました」。



部屋 節子 部屋 節子(16)
 広島市三篠本町3丁目(西区)8月6日母チエ子が原爆投下の1週間後、局舎跡で配られた分骨を受け取る。4歳だった弟敏雄は「姉は『どうせ戦争で長く生きられないのなら、桜が散るように死にたい』と話していたそうです」姉宏子(18)は、爆心2・5キロの三篠本町3丁目の市役所三篠出張所で勤務中に爆死。

前田 若葉 前田 若葉(15)
 広島市横川町2丁目(西区)8月6日局に向かう途中の爆心800メートルの寺町(中区)で被爆し、兄卯三郎が見つけ、二人でたどり着いた三菱重工業第20製作所の救護所で6日夕、死去。応召で台湾にいた兄豊は「妹は、新庄橋近くの竹やぶまで逃げ、通り掛かった弟の卯三郎に『兄ちゃん』と全身やけどの体で呼び掛けたそうです」父喜久藏(50)は自宅跡で遺骨が見つかり、母タケ(48)の遺骨は不明。広陵中1年の弟節生(13)は、爆心1・7キロの鶴見橋近くでの建物疎開作業中に被爆し、収容された横浜小(安芸郡坂町)で28日死去。

増田 照子 増田 照子(15)
 安佐郡伴村(安佐南区)8月6日母ハナコらが捜すが、遺骨は不明。伴小高等科1年だった妹豊子は「姉は『勝利の日まで一生懸命働かなくては』を口癖のように話し、前年の冬に一時下宿していた市内の伯母宅からよこした手紙にまで繰り返し書いていました」。

死没者の氏名(年齢)
職業遺族がみる、また確認した被爆状況1945年8月6日の居住者(応召や疎開は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)

松本 千里 松本 千里(17)
 安佐郡祇園町南下安(安佐南区)8月6日父節一らが捜すが、遺骨は不明。女子てい身隊として三菱重工業第20製作所に勤めていた姉八重子は「妹は5日まで風邪で寝込んでいましたが、あの日朝、仲のよい同級生7人の迎えに『今日はだいぶ体の具合がよくなった』と言い、何も食べずに出て行きました」。

三村 ヒサヱ 三村 ヒサヱ(16)
 安佐郡祇園町長束(安佐南区)8月6日母アキコらが捜すが、遺骨は不明。爆心2・2キロの皆実町1丁目で動員作業に出る準備中に被爆した広島商業学校1年の弟宰は「あの時代は『月月火水木金金』のご時世。姉は『お国のため』と一日とて動員を休んでいないのを誇りにしていました」。

宮本 悦子 宮本 悦子(16)
 安佐郡八木村(安佐南区)8月6日父得一が捜すが、遺骨は不明。可部高女(現・可部高)2年だった妹満子は「田の草取りの手伝いで洗濯が間に合わなかった姉は6日朝、『帰ったら、きれいに洗いアイロンかけて返すけんね』と、私が縫った新しいシャツを着て家を出ました」日本勧業銀行(現・第一勧業銀行)広島支店勤務の姉治子(19)は、職域義勇隊として爆心900メートルの県庁北側一帯の建物疎開作業に出ていた。遺骨は不明。

三吉 ミユキ 三吉 ミユキ(16)
 安佐郡祇園町西原(安佐南区)8月6日父秀雄が6日午後から捜すが、遺骨は不明。祇園高女2年だった妹美智子は「姉は、貯金の窓口で受け付けをしていました。ほのかに思いを寄せていた将校さんが窓口を訪れた日は、帰って来ると『今日もあの人が来たんよ』と、母や私の前で声を弾ませていました」農業の父秀雄(52)は爆心地を連日歩き、12月28日死去。

山本 フジエ 山本 フジエ(15)
 広島市寺町(中区)8月6日遺骨は不明。佐伯郡小方村(大竹市)の伯母宅にいた12歳の弟松夫は「両親は幼いころ爆発事故で死に、原爆で姉と兄を失い一人になりました。家族の分まで生きさせてもらっている気がします」石材店勤務の兄光孝(17)は、爆心1キロの自宅で被爆し、たどり着いた双三郡作木村の親類宅で29日死去。

中井 春子(15)
 安佐郡古市町古市(安佐南区)8月6日父早美と小学6年だった妹章子が捜すが、遺骨は不明。妹は「よく母の浴衣などをほどいて服を縫っていました」。

中野 豊子 中野 豊子(16)
 安佐郡古市町東野(安佐南区)8月6日父芳太郎が捜すが、遺骨は不明。小学5年だった妹美佐子は「私が最後に見た姉は、6日朝も鏡台の前に立って、おかっぱ頭に白い鉢巻きをきりっと結んで出て行く姿でした」母美代子(49)、姉ヨシ江(23)、姉里美(22)は建物疎開で取り壊された家屋の廃材を薪に持ち帰るため、爆心1キロの水主町(中区加古町)に向かい爆死。松本工業学校(現・瀬戸内高)1年の弟信行(13)は、爆心2・3キロの電信第二連隊(南区皆実町)近くの建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

新居 禮子 新居 禮子(にい・あやこ)(15)
 安佐郡祇園町南下安(安佐南区)8月6日父文次郎と母アサカらが捜すが、遺骨は不明。46年に満州(中国東北部)から引き揚げた姉鶴子は「亡き両親の話では、妹は6日朝も『行ってまいります』と敬礼のしぐさをして出たそうです」姉節子(18)は、祇園町の三菱重工業第20製作所の職域義勇隊として爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に出て、たどり着いた自宅で8日死去。

新本 信子 新本 信子(15)
 安佐郡祇園町西原(安佐南区)8月6日父仙市と母ミヤトが捜すが、遺骨は不明。小学4年だった弟賢治は「娘らしい靴や服も手に入らず、おしゃれをすることも許されない時代しか知らず死んだのは、あまりにむごいことです」。

新田 茂子(15)
 広島市上天満町(西区)8月6日金輪島の軍需工場に動員され、刀のさやを作っていて被爆した松本工業学校(現・瀬戸内高)2年だった弟貞幸が捜すが、遺骨は不明。弟は「連日の動員で互いに忙しく、家でも話をする時間さえないまま、姉は死にました。残念でなりません」弟博三(5つ)は自宅近くで被爆し、運ばれた山手町で6日死去。

猫田 サチ子 猫田 サチ子(15)
 安佐郡祇園町西原8月6日父収一が捜すが、遺骨は不明。姉輝子は「保険の事務に就いていた妹は『課の皆さんが親切で、よくしてくれる』と喜んでいました。5日の晩に、母にせがんでおかっぱ頭を調髪した際の髪を墓に納めました」。

波田 清子 波田 清子(15)
 広島市横川町3丁目(西区)8月6日父芳登らが捜すが、遺骨は不明。安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所へ動員されていた、祇園高女専攻科1年の姉芳子は「妹は『疲れた、休みたい』と母にこぼしていたのが耳に残ります」。

原田 數子 原田 數子(15)
 安佐郡古市町(安佐南区)8月6日父富列が捜すが、遺骨は不明。小学6年だった妹君子は「自転車店をしていた家にあの日朝、タイヤの空気をつぎに来たお客さんが『空襲がある』としきりに言うので、父は姉を引き留めましたが、『局のカギを預かっているから、休むわけにはいかない』と出たそうです」崇徳中2年の弟信明(13)は、爆心800メートルの八丁堀周辺の建物疎開作業に動員され、8日死去。

廣澤 ミキヱ 廣澤 ミキヱ(15)
 安佐郡祇園町東原(安佐南区)8月6日爆心300メートルの相生橋西詰めで倒れ、夜になり、通り掛かった人に住所や氏名を告げて「家族に伝えてほしい」と言い残す。知らせを受けた父岩三が捜し、遺体を確認。小学3年だった弟英雄は「顔形も分からないほど焼けただれ、アルミの名札にインクで書いていた校名と名前が左胸の素肌にくっつき、浮かび上がっていたと聞いています」。



福本 弘子 福本 弘子(15)
 安佐郡祇園町西原(安佐南区)8月6日父六一が勤め先、爆心1キロの上流川町(中区幟町)にあった広島中央放送局(現・NHK広島放送局)で被爆後に捜すが、遺骨は不明。93歳になる母ヒサヲに代わり、祇園高女2年だった妹スミ子は「6日朝は、姉に頼まれて髪をくしでといて束ねました。『姉さん、きれいだね』と言うと振り返り、日焼けした顔から白い歯がこぼれました」。



船田 弘子 船田 弘子(15)
 安佐郡可部町5丁目(安佐北区)8月6日父甚太郎と母マスヨが捜すが、遺骨は不明。満州(中国東北部)から引き揚げた姉頼子は「母の話では、妹は6日朝も、ブリキのバケツに水をくんで畑にまく日課の作業をした後、『汽車の時間に遅れる』と、朝食もろくろく取らずに家を飛び出して行ったそうです」崇徳中3年の弟勇々彦(14)は爆心1・5キロの楠木町1丁目の建物疎開作業に動員され、28日死去。

 【本川国民学校高等科2年】
石川 正 石川 正(さだむ)(30)
 広島市己斐町(西区)8月6日引率教師として出ていた。遺骨は不明。当時1歳で、現在は教職に就く二女律子は「90年から3年間、本川小で勤務しました。校舎対岸にある原爆ドームが目に入ると、父も同じ所を歩いていたのかなとの思いが込み上げることがありました」同居していた妻の妹で、安田高女教師の澄江_jは、生徒とともに爆心900メートルの県庁北側の建物疎開作業に出て、遺骨は不明。

小田 実男 小田 実男(13)
広島市左官町(中区本川町1丁目)8月6日爆心1・6キロの広島貯金支局で被爆した姉キクヨが自宅跡を捜すが、遺骨は不 明。「郵便の集配に回っていた弟は、帰宅すると『配達した家から今日も菓子をもらった』と声を弾ませて母に報告していました。しかし胸を患い、自宅で静養中でした」真ちゅう細工の父精一ciは、自宅跡で遺骨を確認。母サカエ(49)は呉市の実家で13日死去。本川小4年の妹良枝(9)の遺骨は不明。

唐崎 和幸(14)
広島市中島本町(中区)8月6日遺骨は不明。前日まで中島本町で一緒に暮らしていた親類の東房子は「郵便配達をしていたらしく『お姉ちゃん、家に郵便を入れたよ』と話していた記憶があります」二葉軒撞球(どうきゅう)場経営の祖母エイ(58)と、房子の姉に当たる東須美子(19)は自宅で爆死。(注・遺影は99年7月13日付の「中島本町T」編で掲載)

川崎 明 川崎 明(14)
広島市空鞘町(中区本川町3丁目)8月6日日本製鋼所(安芸区船越町)で被爆した兄義明が捜すが、遺骨は不明。兄は「原爆の後に弟が郵便局へ動員されていたと知りました。兄弟とはいえ、戦争中は軍事機密だからと、何をしているか自由に話せませんでした」母タツミ(40)は自宅で爆死。爆心540メートルの下中町 (中区袋町)の広島中央電話局勤務の姉リチ子(16)と、本川小に通っていた妹桂子(12)、妹早苗(5)、弟博司(1)の4人とも遺骨は不明。

白倉 賢治 白倉 賢治(14)
広島市鷹匠町(中区本川町2丁目)8月19日母が病死し、父が応召した後、きょうだい4人がいた爆心700メートルの自宅で下敷きとなり、弟を連れて福井県武生町(武生市)の祖母宅に向かうが、19日死去。武生町に疎開していた小学2年の弟勝正は「布団に横たわる兄に敗戦を教えると、『日本が負けるわけないだろう』と、か細くなった声で答えました」本川小6年の弟隆光(11)は、武生町で15日死去。姉登志子(20)と、妹喜美江(5)の遺骨は不明。

高本 信治 高本 信治(13)
広島市空鞘町(中区本川町3丁目)8月6日広島駅近くで被爆した父光信が捜すが、遺骨は不明。応召で宮崎県にいた兄睦美は「復員すると、家族は父と二人になっていました」爆心600メートルの自宅で被爆した母か祢(49)は14日、姉美智子(23)は8日に死去。本川小6年の妹貴美子(11)と3年の妹香津代(8)は、分教場となっていた空鞘稲生神社に行き、遺骨は不明。

南草 馨(15)
広島市中島本町(中区中島町)8月6日父隆夫が捜すが、遺骨は不明母千浪(34)と妹の美佐子(2)は自宅で爆死。第二国民学校(現・観音中)1年の弟実(12)、中島小2年の妹美枝子(7)の遺骨は不明。(注・遺影は99年8月3日付の「中島本町U」編で掲載)

橋本 勝 橋本 勝(13)
広島市鷹匠町(中区本川町2丁目)8月6日遺骨は不明。爆心2・3キロの広島地方専売局で勤務中に被爆した姉梅子は「弟は、自転車での郵便配達に追われ、空襲警報が鳴り続いた5日夜も『疲れているので寝かしておいてくれ』と言いました。鷹匠町に住んでいた家族5人のうち、私一人が残りました」大工の父与右エ門(64)は仕事先に向かう途中に被爆し、8日死去。爆心600メートルの自宅にいた母リセ(50)と本川小5年の弟孝(10)の遺骨は不明。

三通(みとおり)義治(14)
広島市西九軒町(中区十日市町)8月6日父祐夫が捜すが、遺骨は不明。


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