特  集
2000.6.20
 
日本、極秘裏に参加  
朝鮮戦争ぼっ発50年
 

 初の南北首脳会談が実現し、世界の注目を集めた朝鮮半島。今回の共同宣言で緊張緩和への期待が高まっている。長年にわたる、民族分断の構図を決定的にしたのが朝鮮戦争(一九五〇―五三)である。今月二十五日は戦争ぼっ発からちょうど五十年。この戦争は隣国、日本に事実上の再軍備を促し、自衛隊と在日米軍による日米安保体制の「原形」を生み出した。その流れは、朝鮮半島有事もにらむ現在の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)にもつながっていく。シリーズ「地域と『安保』」の一環として、半世紀前、文字通りの「周辺有事」だった朝鮮戦争の際、対岸の中国地方がどうかかわったかを、関係者の証言からたどる。
岩崎 誠
 朝鮮戦争と中国地方

年  表
 朝鮮戦争と日本
特別掃海隊
  非軍人1200人を動員 1人死亡「周辺有事」の先例

江田島学校
  警備予備隊を訓練 国連軍兵器 使い方学ぶ



特別掃海隊
非軍人1200人を動員
1人死亡「周辺有事」の先例

 「海の神様」で知られる香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮。五月二十七日、山口県大島郡沖浦村(現大島町)出身の中谷藤市さん(73)=大阪市浪速区=が長い石段を上った。海上自衛隊が毎年、旧海軍記念日のこの日に営んでいる掃海殉職者慰霊祭に出席するためだ。

 ●大島出身者

 一九五〇年、中谷さんの弟、坂太郎さん=当時(21)=は海上保安庁の機雷掃海隊員として、極秘裏に朝鮮半島沖に出動した掃海艇に乗り組んでおり、十月十七日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)元山沖で機雷に触れ、亡くなった。

 金比羅山にある掃海殉職者の慰霊碑には、戦後、瀬戸内海などで機雷を除去する仕事で死亡した七十九人の名が刻まれる。その中に、坂太郎さんもいる。だが、ただ一人の「戦死者」であることは記されていない。「弟が朝鮮に行ったことは当時、固く口止めされた。最近でこそ堂々と話せますが…」。中谷さんは、弟の名をなぞった。

 「下関に集結せよ」。五〇年十月初め、日本各地の海上保安庁の掃海部隊に、指令が下った。朝鮮戦争に派遣する「日本特別掃海隊」編成のためだった。

 開戦当初、北朝鮮軍は進撃を続け、釜山近くまで達する。九月、米軍を主体とする国連軍は反攻を開始。元山上陸など重要作戦に欠かせないのが、北朝鮮軍が敷設したソ連製機雷の除去。米軍は終戦直後から国内での掃海を続けてきた日本の出動を強く求めたのだ。

 ●下関に参集

 下関市の唐戸桟橋に集まった掃海隊員たちは、初めて朝鮮戦争に「参加」することを知る。「平和憲法があるのに外国の戦争に行っていいのか」と、艇ごとに議論が続けられた。

 「われわれは軍人ではないと荷物をまとめようともした。だが、米軍に命令されたのだからやめるわけにはいかないと…」。広島県賀茂郡黒瀬町に住む元掃海隊員の川原次郎さん(73)は明かす。ほとんどの隊員が朝鮮半島へ向かった。

 元山沖には、掃海艇四隻を中心とした船団が到着。湾内の無数の機雷を処分する作業を命じられた。沖合には、上陸に備え米軍の空母や戦艦が待機。日本の掃海隊は作戦自体に組み込まれていた。川原さんは新婚早々だったが、「国内で掃海経験は十分ある。やるしかないと覚悟を決めた」。

 十月十二日、米軍の掃海艇二隻が触雷し沈没。五日後、中谷坂太郎さんが乗っていた呉の掃海艇「MS―14号」が水面下の機雷に接触する。ペアを組む別の掃海艇にいた川原さんは、その瞬間を目撃した。「こっぱみじんでした」

 呉市に住む高木義人さん(72)はMS―14号の生存者だ。「午後三時ごろばーんと音がして体が飛んだ。みんな甲板にいたのに調理員の中谷君だけが、食事の準備で、船倉に降りていた」。坂太郎さんの遺体は見つからず、高木さんら他の十八人も重軽傷を負った。

 ●30年も封印

 残った三隻の掃海艇は、現場を離脱して帰国、指揮官らは解任される。しかし、掃海隊派遣は続き、十二月までに七回、延べ千二百人が半島沿岸で掃海。海上保安庁は翌年、鋼鉄製の「モルモット船」も走らせ、機雷が処理されたのも確認した。

 吉田茂首相(当時)は憲法に抵触する可能性から、犠牲者が出た事実はもちろん日本特別掃海隊の存在すら公表せず、隊員たちにもかん口令が敷かれた。

 だが、戦後三十年余りたって当時の海上保安庁長官の手記が出版され、全容が明らかになる。坂太郎さんが叙勲を受け、朝鮮戦争での「戦死」が公認されたのは、七九年のことだった。

 金刀比羅宮での慰霊祭。掃海部隊のOBでつくる「航啓会」の細谷吉勝会長(62)=呉市=は、式辞の中で日本特別掃海隊に触れ、「翌年の講和条約を有利に運ぶのに、大きく貢献した」と評価した。

 以前は事実を隠す国に憤りを感じた中谷さんは最近、「弟の死が必ずしも無駄ではなかった」と思い始めている。そして「歴史のかなたに忘れられることがないように」と願う。

 海上保安庁の掃海部隊の人材とノウハウは日米安保体制のもと、五四年に発足した海上自衛隊にそっくり引き継がれた。「その伝統は、掃海部隊の二度目の海外派遣であるペルシャ湾掃海(九一年)に生かされた」と細谷さん。そして今、周辺有事で米軍が期待する分野の一つが、海自隊の掃海能力だとされている。

 かつては国家機密だった日本特別掃海隊の秘話。今では海自隊は「海外派遣の先人」として、当たり前に紹介するようになった。







掃海殉職者の碑の前で、亡き弟の記憶を語る中谷藤市さん
(5月27日、香川県琴平町)




北朝鮮・元山沖に消えた掃海艇MS−14号。旧海軍特務艇が転用されていた
(海上自衛隊呉地方総監部提供)



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