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2011年 2011ヒロシマ

フクシマとヒロシマ

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2010年 2010ヒロシマ

被爆地図

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2009年 2009ヒロシマ

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2008年 2008ヒロシマ

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2007年 2007ヒロシマ

ヒロシマの記録 佐々木雄一郎が撮った原爆ドーム(2007年6月05日)

ヒロシマの記録 甦る「原爆十景」(2007年4月30日)

ヒロシマの記録 菊池俊吉が撮った原爆写真V(2007年3月28日)

ヒロシマの記録 菊池俊吉が撮った原爆写真U(2007年2月28日)

ヒロシマの記録 菊池俊吉が撮った原爆写真T(2007年1月17日)
 広島原爆の惨状を記録したネガフィルム783点が残っていた。写真家、菊池俊吉さん(1916―90年)が撮影した個人では最多のカット数。ネガは、核兵器が人間に何をもたらすのかを鮮明に告げる。今年の「ヒロシマの記録」は、原爆写真を掘り起こし、未来への警鐘を考える。まず、菊池さんの写真をめぐる史実と写っていた被爆者の証言とともに、ネガに焼き付けられた世界に迫る。

ヒロシマ記者 超大国を歩く ブッシュ政権の下、9・11テロやイラク戦争が米国社会や市民の暮らしにどのような影響を及ぼしているのか。その実態を探るため、米国各地を歩いた。広島・長崎の被爆者や核開発に伴う世界のヒバクシャ、放射能汚染の実態など、戦争や核時代の「負の遺産」を見続けてきた者の目に映った超大国の姿をリポートする。(2006年11月19日〜2007年7月8日)

放影研60年 「平和」「軍事」揺れた過去 放射線影響研究所(放影研、広島市南区)は、被爆者調査という人類史上、前例のない研究を積み上げ、 放射線が人体にもたらす影響を少しずつ明らかにしてきた。その成果は、ヒロシマの財産であると同時に、 被爆者を二度とつくってはならないとの戒めでもある。人類の英知を未来にどう継承していくのか。60年 を迎える放影研のいまに迫る。(2007年2月6日〜2007年10月20日)
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2006年 2006ヒロシマ

ヒロシマの記録 埋もれていた同盟の報道写真 原爆による広島の惨状を全国に初めて伝えた写真の撮影者と経緯が判明した。「同盟通信社」大阪支社の記者だった中田左都男さん(一九二〇―九四年)が四五年八月十日に入り、撮った廃虚の写真をはじめ三十二枚が見つかった。うち少なくとも三枚が米軍の進駐を前に各紙で掲載され、被爆の実態を知らせていた。写真はどのような状況で撮られ、扱われたのか。中田記者の足取りを含め、埋もれていた原爆報道写真を紹介する。(2006年9月24日)

原発事故20年チェルノブイリに暮らす 旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故が発生し、二十年になる。広島型原爆の三百倍の放射性物質が流出したとされる史上最悪の原子力事故は、周辺国の地域社会に深刻な被害をもたらした。記憶の風化が進む中、現地の人たちは何を思い、どんな暮らしをしているのか。核汚染社会のいまを最大の被災国ベラルーシ南部のゴメリ市からルポする。(2006年4月2日〜5月10日)/ つなぐ チェルノブイリとヒロシマ (2006年5月29日〜6月2日)

北朝鮮核実験 ヒロシマは問う 北朝鮮が予告通り核実験を実施したと発表し、世界に緊張感が高まっている。被爆地広島には、怒りとともに、核兵器廃絶の訴えが無視されたむなしさも漂う。被爆者代表や識者らに、核実験の影響やヒロシマの果たす役割を聞いた。(2006年10月12日〜10月17日)
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2005年 2005ヒロシマ

広島世界平和ミッション 被爆者や若者らを核保有国や紛争地に派遣し、核戦争の被害実態とともに、広島市民、県民がはぐくんできた「平和と和解」のメッセージを伝える「広島世界平和ミッション」(広島国際文化財団主催)を、被爆六十周年記念事業で行う。「中東・アフリカ」をはじめ「南アジア」「北東アジア」などの派遣先の実情を伝える記事や著名人から寄せられた賛同のメッセージなどを紹介する。

ヒロシマの記録 ヒロシマの惨禍は過去の出来事ではない。私たちは一九四五年八月六日に初めて使われた原爆の威力をはるかに上回る三万発もの核兵器に囲まれている。民族や国籍の違いにかかわらず核時代の中で生きている。ところが普段は思いめぐらすことは少ない。一発の原子爆弾で人間は、都市はどうなったのか―。記憶を呼び覚まし、警鐘を告げるのが原爆記録写真である。写真に焼き付けられたヒロシマを三回にわたり特集する。(2005年8月2日〜8月5日)

縮景園の8・6 四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面を追った。(2005年7月26〜7月30日)

被爆60年 被爆者・若者アンケート  原爆投下という人類未曾有の惨状を体験した被爆地広島で、次世代への体験継承がうまくできていないと感じる被爆者と若者は、ともに三割を超すことが二十二日、中国新聞社が実施した被爆六十年のアンケートで分かった。原爆投下を容認する考えが若者の25%強を占めるなど、被爆者との意識のギャップも浮かび上がった。被爆者の高齢化が一段と進む中で、体験継承や核兵器廃絶に向け、世代を超えた意識の共有と行動が急がれる。(2005年7月23日)

ヒロシマ60年 記憶を刻む あの日から60年。被爆地に刻み込まれた記憶が薄れないうちに、被爆体験を次世代が継承していくためにどうすればよいのか。被爆者が抱えてきたあの日をたどる。(2005年7月10日〜7月31日)

ヒロシマを聞く 被爆者から若者へ 未来の伝言
 米国の原爆投下、日本の敗戦から間もなく六十年を迎える。
 被爆者たちは、あの体験を二度と繰り返してはならないと、世界平和と核兵器廃絶を訴えてきた。しかし地球を幾たびも死滅させるだけの核兵器が現に存在し続ける。一方、忌まわしい記憶を封印したまま暮らす被爆者がいかに多いかも、私たちは知っている。その被爆者に、老いが忍び寄る。私たちは「あの日」の体験をきちんと受け止めただろうか。被爆者の記憶を語り継いでいくことができるだろうか。原爆をその威力としてではなく、人間にもたらした悲惨さとして、将来に伝えられるだろうか。次代を担う若者たちが、半世紀ほどの年齢差を超えて被爆者に向き合う。その半生を聞く。被爆者が発する「未来への伝言」に耳を傾ける。そんな対話を、これから始める。(2004年11月28日〜)

原爆資料館、今夏50周年 広島市中区の平和記念公園にある原爆資料館は今夏、開館五十周年を迎える。それを記念し、七月十一日から企画展「廃虚の中に立ち上がる― 平和記念資料館とヒロシマの歩み」を開く。資料館は一九五五年八月六日に完成、二十四日に開館し、被爆の実態を伝える資料を収集、国内外に発信してきた。その活動を約三百三十点の資料で紹介する。(2005年6月27日)

平和をはぐくむ ホロコースト記念館10周年  第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の歴史を伝えるホロコースト記念館(福山市御幸町)が、七月で開館十年を迎え、今月十八日には記念講演会を福山市で開く。子どもたちへの教育をテーマに掲げる平和学習の拠点には、国内外から七万人が訪れた。今年は戦後六十周年。重みを増す記念館の展望と課題を探る。(2005年6月18日)

ヒロシマの記録 被爆からの復興 広島市の上空で一九四五年八月六日にさく裂した一発の原子爆弾により、三十万を超す人間が被爆した。死者はその年末までに十四万プラスマイナス一万人(市が七六年に国連へ提出した推計数)に上り、爆心直下から半径二キロにあった建物四万五千百余件はほぼ全壊全焼した。ヒロシマの歩みは屍(しかばね)の世界から始まった。原爆を体験し、初の公選市長に就いて復興に努めた故浜井信三氏は「理想都市広島を建設してはなむけにしたい」と誓った。それは、いばらの道を歩くような営みであった。被爆からの復興を中国新聞社が記録してきた写真とともにたどる。(2005年4月30日)

放影研発足30年 広島市南区、放射線影響研究所(放影研)が、日米両政府共同出資の財団法人として発足して三十年を迎えた。被爆者の追跡調査を通じ、放射線被曝(ひばく)が人体にもたらす影響を明らかにしてきたその研究成果の評価は高い。一方、原爆を投下した米国が運営主体に絡んでいることに、被爆者たちは複雑な感情も抱く。これまでの研究で、被爆の後障害はどこまで解明されたのか、未解明の課題は何なのか。三十年間の歩みを振り返り、将来展望を探る。(2005年4月6日)
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2004年 2004ヒロシマ

ヒロシマの記録 原爆・平和写真DBから 海外の来訪者 核兵器の威力と人間的悲惨さを伝え、平和への営みを象徴するヒロシマには、世界各地から歴史的な人物が訪れる。発せられたメッセージは、核時代をめぐる受け止めを刻む。被爆六十周年に向け、中国新聞社が記録し、広島市の原爆資料館と共同でデータベース(DB)化を進める「原爆・平和写真」からヒロシマへの来訪者を紹介する。(2004年10月24日)

50年の原水爆禁止運動 一九五四年のビキニ被災事件は国内に、原水爆禁止運動を燎原(りょうげん)の火のように広げた。それから半世紀。核兵器廃絶を求めるスローガンこそ不変ではあるものの、政治色の強まりや組織分裂を経て、広範な大衆運動という「原点」から遠ざかってはいないか。被爆地での今年の世界大会を通して、運動の現状と課題を探る。(2004年8月03日)

歳月を超えて 被爆59年の夏 広島市南区の似島で、原爆死没者の遺骨が相次ぎ見つかっている。被爆五十九年。今になって掘り起こされる事実が、原爆被害の底知れぬ甚大さを物語る。茶褐色でもろくなった骨の姿が、世間に忘れられてきた歳月の長さを思い知らせてくれる。あの日の体験を、私たちはどう胸に刻み、次の世代に伝えればいいのか。夏のヒロシマを歩いた。(2004年7月22日)

ヒロシマの記録 原爆・平和写真データベース化 中国新聞が呼び掛け、広島市の原爆資料館と取り組む「原爆・平和写真」のデータベース化は、「二十世紀に生み出された核兵器の使用で何が起き、続いているのか。二十一世紀に伝え残そう」との考えから始められた。家族を失い、放射線の後遺症に見舞われた被爆者の悲しみ、苦しみ、平和への希求…。原爆の威力と悲惨さを受け止めた国内外の人たちと相まってのヒロシマの営みを、一枚ごとの写真を通し、記憶しようというものである。初期の貴重な写真を関係者らの証言とともに紹介する。(2004年3月22日)

銀色の脅威 エノラ・ゲイ一般公開 広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの一般公開が昨年12月、米・ワシントン郊外のスミソニアン航空宇宙博物館新館で始まった。完全修復された銀色の機体は、深刻さを増す核兵器の脅威を呼び起こす。抗議のため広島県原水禁が派遣した被爆者たち3人を同行取材し、展示の裏に潜む米国の現状や、核兵器廃絶への新たなうねりを報告する。(2004年1月2日)
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2003年 ユニタール広島事務所 第1回研修プログラム―紛争後の復興 どう支援 中四国地方初の国連機関として今年七月、広島市中区に開設した国連訓練調査研究所(UNITAR=ユニタール)広島事務所が十一月、第一回研修プログラムを開催。「紛争後の国々における訓練と能力開発」が初回のテーマ。復興を目指すアフガニスタンを中心に九カ国から、政府職員や大学教授、国連や世界銀行など支援機関の関係者ら約六十人が参加。初日の基調講演を詳報する。(2003年11月29日)

国連軍縮大阪会議を振り返って  「軍縮とその将来」をテーマにした国連軍縮大阪会議が大阪で開かれ、米ロ中などの核保有国をはじめ、アジア・太平洋地域を中心に政府高官や軍縮問題専門家、NGOの代表ら十八カ国から五十五人が参加。後退する核軍縮の現状と課題をさまざまな角度から検討。あらためて「暴力の文化から平和の文化」をつくり出すの平和・軍縮教育の重要性が確認された。焦点となった「核軍縮の現状と課題」「軍縮・不拡散教育」の討議内容を紹介し、会議の歩みを振り返る。(2003年8月25日)

原爆被災写真 1945-2003年  広島市の広島平和文化センターがこの夏、米国立公文書館から原爆の惨状を記録した鮮明な写真二百二十六枚を入手した。米軍が「原爆の効果」を調べるために撮った写真は、被爆地には「原爆の悲惨さ」を伝える資料。一連の写真を手がかりに被爆の実態を追う。(2003年8月6日)

ヒロシマ胎動  広島市民らでつくる「劣化ウラン弾禁止(NO DU)ヒロシマ・プロジェクト」のイラク調査団に同行し、戦争のつめ跡を取材。核兵器廃絶と平和を願い行動してきたヒロシマ。いまだ戦場のイラク。被爆地はどう立ち向かえばいいのか。がれきの街から考える。(2003年7月11日)

ヒロシマの記録 被災写真をみる  広島平和文化センターが、米国立公文書館カレッジパーク分館からの入手を公表した広島原爆の記録写真226枚は、これまでにない空撮・地上からのカットが多数含まれる。米軍が「原爆の効果」を調査のために撮った写真は、ヒロシマにとっては「原爆の悲惨さ」を伝える被災資料。原爆資料館資料調査研究会メンバーで、写真家の井手三千男さんの協力を得て、被爆の実態をみる。(2003年6月20日)

原爆症認定 広島で集団提訴へ  全国では第三陣になる原爆症認定の集団訴訟で十二日、広島の被爆者二十七人が提訴に踏み切る。被爆から五十八年。老いた被爆者たちは、法廷での解決に、希望を託す。(2003年6月6日)

イラク戦争 私はこう見た  イラク戦争後もイラク国内では治安は混乱し、復興の見通しはまだ定かではない。開戦の大義名分だった大量破壊兵器は見つからず、テロは撲滅されず、戦争に傷ついた市民ががれきの街でうめく。米国が「イラクの自由作戦」と名付けたこの戦争は、いったい何だったのか。各界の専門家に聞いた。(2003年5月17日)

ヒロシマの記録 平和大通り 被爆からのヒロシマの歴史を刻む平和大通りに込められた思いを受け継ぎ、形作っていくのは、時代が移ろうともヒロシマの務めであるのは変わらない。デルタを貫く通りの復興の足跡を描く。(2003年5月13日)

3・2 人文字  広島市民らが、三月二日、「一万人の市民が作る平和の人文字メッセージ」運動に取り組んでいる。「NO WAR NO DU」の人文字に、イラクへの戦争反対と、湾岸戦争などで米英両国が使用した放射能兵器である劣化ウラン弾(DU)の禁止への思いを込める。その人文字を空撮し、アメリカの主要紙に意見広告を掲載する計画だ。戦争を止めようとする被爆地からのアピールが、世界中の訴えと響きあってブッシュ米大統領やブレア英首相にどこまで届くか。(2003年2月28日)

イラク攻撃の波紋  イラクの大量破壊兵器の武装解除をめぐり、武力行使に訴えようとする米国のブッシュ政権に反対する国際世論が高まっている。十四日の国連安全保障理事会では、査察継続を求めるドイツやフランスの主張が大多数を占めた。(2003年2月17日)

湾岸戦争12年 国際世論で再発阻止を 劣化ウランの被害今も (2003年1月16日)
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2002年 がん急増 薬も不足 劣化ウラン弾、影響深刻/イラク人医師 アリ氏に聞く 市民団体の招きで被爆地広島を訪れているイラク人医師のジャワッド・アル・アリ氏に、最近のイラクの医療事情や、四年ぶりに始まった国連安保理決議に基づく同国への大量破壊兵器に対する査察問題について聞いた。(2002年12月3日)

ヒロシマから、ヒロシマへ シンポジウム「ヒロシマを語る」 シンポジウム「ヒロシマを語る」が行われ、十回シリーズ最終回のテーマは「ヒロシマから、ヒロシマへ」。昨年九月十一日の米中枢同時テロを機に暴力の連鎖は続き、核兵器使用の危機が叫ばれる。被爆地の平和構築の思想は、混迷を深める世界に何を訴え、どんな未来を描けばいいのか―。パネリスト三人とコーディネーターのそれぞれの意見を詳報。(2002年11月27日)

イラク査察再開、攻撃はテロ招くだけ 米核時代平和財団代表 クリーガー氏に聞く(11/20) 米国の反核平和運動の指導者で、核時代平和財団代表のデービッド・クリーガー氏は、国連などによるイラクの大量破壊兵器に対する査察の重要性を説く一方、米軍によるイラク攻撃を阻止するために、世界的な反戦運動の盛り上がりの必要性を強調。(2002年11月20日)

ヒロシマの心、今こそ世界に 天理市まで平和行進 安田行純尼僧に聞く 米国のイラク攻撃や日本の軍事化に反対しようと平和行進を始めた日本山妙法寺の安田行純尼僧。米ニューヨーク州に道場を構え、これまでに米大陸を歩いて4度横断して世界平和を訴えてきた安田さんは「世界が今ほどヒロシマの役割を必要とする時はない」と、被爆地に大きな期待を寄せた。(2002年11月08日)

東海村臨界事故から3年 原子力の村、後遺症今も(9/29) 死者二人を出し、日本の原子力産業史上で最悪となった茨城県東海村の臨界事故から三周年。事故現場や周辺では何が変わり、変わらなかったのか。当時、住民避難などで陣頭指揮を執った村上達也村長へのインタビューとともに、現地の様子をリポートする。

イラク攻撃に走るブッシュ政権 広島市立大ファルーク教授に聞く(9/21) なぜ今、イラク攻撃なのか。武力攻撃は米国をはじめ、中東地域や世界の安定に貢献するのか。米中枢同時テロに見られるようなテロ行為の防止に役立つのか。イスラム世界に詳しいマレーシア出身の広島市立大のオマール・ファルーク教授聞いた。

米テロ1年 ヒロシマから(9/5) 世界を震撼させた米中枢同時テロから満一年。アフガニスタンを報復攻撃した米国は、核兵器の先制使用も辞さない構えを見せるなど一国主義を強め、テロ防止を口実にイラク攻撃にも手を染めようとしている。報復の連鎖はまだ続くのか。断ち切るすべはないのか。ヒロシマの視点で、専門家たちに聞いた。

国連軍縮京都会議(8/16) 「国際安全保障と軍縮に対するテロリズムの挑戦―世界及び地域への影響」を主題にした第5回国連軍縮京都会議は、7日から9日まで開かれた。米中枢同時テロ事件がもたらした軍縮や地域への影響などについて討議が行われ、焦点となった「テロと大量破壊兵器」「テロ防止策」「国連の役割」について討議内容を紹介、会議の印象をまとめた。

パキスタンの子どもと広島入り 平和運動家サラマットさんに聞く(8/6) 「インド・パキスタン青少年と平和交流をすすめる会」の招きで広島市に滞在中のパキスタンの歴史学者で、反核平和運動に深くかかわるザリーナ・サラマットさんに印パ対立の現状や、被爆地に触れた子どもたちの変化などについて聞いた。サラマットさんは「廃虚から立ち上がり、悲しみや憎しみを超えて平和を希求するヒロシマに接することで、子どもたちの間にピースメーカーとしての強い自覚が芽生えている」と述べた。

今こそ被爆体験生かせ 「テロとヒロシマ」 シャーウィン教授に聞く(8/3) 国際シンポジウムに出席するため広島市を訪れている米国タフツ大学歴史学教授で、核問題に詳しいマーティン・シャーウィン氏に、米中枢同時テロ後の核状況や「ヒロシマの役割」などについて聞いた。氏は「世界が危険な状況にある今こそ、被爆体験に根ざした平和の訴えが貴重である」と強調。

ヒロシマ祈りの日(8/2)  2002年原爆・平和関連インデックスページ

Hiroshima 2002(8/2) 原爆・平和関連の英語ニュース、特集記事

伝言ヒロシマ2002(7/31) 原爆に遭い、生き抜いてきた被爆者の平均年齢は70・8歳。未曾有の被爆体験から何を学び、未来につなげていくか。ヒロシマの歴史を受け止め、刻んできた人の伝言を聞く

ヒロシマの記憶(7/2) 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が、広島市の平和記念公園に八月一日開館。死没者の遺影や被爆者の手記を公開し、原爆の惨禍と核兵器の廃絶を訴える。一九四五年八月六日、人間がつくり出した大量殺りく兵器の使用により、一人ひとりの身に何が起きたのか。ヒロシマの記憶を見つめる。

在外被爆者 願いは海を超えて(7/2) 在外被爆者からの相次ぐ提訴で、大阪と長崎の地裁で昨年、援護法適用を認める判決が続いた。国は控訴する一方、昨年末に新たな支援策を打ち出したものの、援護法の枠内にとどまり、溝は埋まらない。法廷で争う二人の被爆者は「日本国内と同等の援護を、住み慣れた地で受けたい」と願う

パキスタンで反核・平和運動 フッドボーイ教授インタビュー(2/27) カイゼ・アザム大学のパルベイズ・フッドボーイ教授が、被爆地広島を訪れたのを機に、アフガン情勢や印パ対立の行方、日本やヒロシマの役割などについて聞いた

核時代と中枢同時テロ 〜米の歴史家2氏 連名で寄稿〜 / English (1/9) 核問題に詳しい米大学の歴史学教授らが、2001年9月の米中枢同時多発テロを受け、事件の意味などを核時代と重ね合わせ分析

「テロ・報復戦争とヒロシマの役割」座談会(1/1) 米中枢同時テロと報復戦争が突きつけた課題は?平和実現に向けて被爆地広島はどのような役割を果たせるのか―。国連アジア太平洋平和軍縮センター・石栗勉所長がヒロシマへの期待などについて寄稿

21世紀核時代負の遺産 (2001/9/16日から) 放射性物質をどう安全に管理し事故を防ぐか。それは核兵器廃絶と同じように人類が直面する21世紀最大の課題の一つである。旧ソ連、米国からののレポート
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