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8.6探検隊

(2)日本は原爆を造ろうとしてたのかな

Q

第二次世界大戦で、日本は原爆を造ろうとしなかったんですか。




A
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1944年に陸軍に提出された、原爆開発計画「二号研究」の報告書の一部。ウランの濃縮方法について図で説明している(理化学研究所所蔵)

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進めた研究 開発に至らず

 日本は原子爆弾を世界で最初に落とされた国だよね。だけど、その日本も実は造っていたとすれば、被害と加害が逆になっていた可能性もあるわけだ。早速調べてみよう。

 物理学史に詳しい、東京工業大の山崎正勝教授に聞いてみた。「米国やドイツなどと並び、当時日本も原爆開発を目指していました」。な、なんと、日本でも開発計画が進んでいたんだ。

■仁科博士らが中心

 歴史をひもといてみると―。

 1938年、ドイツでウランを使った原子の核分裂が発見された。核分裂の時に莫大なエネルギーが生まれることも分かり、各国は競って兵器に利用しようとした。

 当時の日本では陸、海軍二つのチームが取り組んだ。陸軍は理化学研究所の仁科(にしな)芳雄博士が中心で、頭文字を取り「ニ号研究」と呼ばれた。海軍は英語で核分裂を意味する「fission」から「F研究」とした。京都帝国大(現京都大)の荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授が中心だった。

 ウラン濃縮の技術はかなり難しく、二号研究では難航した。肝心のウランも不足していた。戦時中に日本が入手できたウラン資源は推定500キログラム。山崎教授によると、原爆を作るには100トン以上が必要だったのに、200分の1しかなかった。研究費も米国の400分の1程度だった。

 空襲で研究施設が被害を受けたこともあり45年6月、仁科博士は開発中止を陸軍に申し入れた。海軍のF研究は設計図作成などの基礎段階で終戦を迎えた。こうして日本は原爆開発には至らなかった。

■核兵器廃絶訴え

 広島市中区の原爆資料館には、広島に原爆が落とされた4日後の8月10日に軍の被害調査隊が集まり「原子爆弾ナリト認ム」と結論付けた報告書の複製が展示してある。仁科博士と荒勝教授も調査に参加していた。自分たちが作ろうとしていた兵器の恐ろしさを知り、衝撃を受けたのだった。

 科学者の中には、戦後、平和運動に積極的にかかわった人もいた。代表的な存在がF研究のメンバーだった湯川秀樹博士だ。有名だよね。81年に亡くなる直前まで核兵器廃絶を訴え続けた。

 かつて京都大で湯川博士の助手などを務めた広島大の牟田泰三学長は「がんの手術の後も、車いすで会議に出られていた。平和への執念を感じました」と、振り返る。


(近藤結一)

なるほどキーワード

  • ウラン

    主に鉱物に含まれる元素で、原子番号は92。放射線を出す性質があり、原子力発生に使われる。

  • 原子の核分裂

    ウランなどの原子の真ん中にある原子核に中性子がぶつかり、原子核が分裂すること。分裂すると中性子が飛び出し、大きなエネルギーを放出する。

  • 理化学研究所

    1917年に設立された、物理や化学の総合研究機関。現在は独立行政法人として、大学や企業と連携した研究も行っている。

  • 湯川秀樹

    物理学者。1949年、原子核の基本構造を解明する「中間子理論」の功績によって、日本人初となるノーベル物理学賞を受賞した。



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「ヒロシマ八時十六分」米では小説に

創刊号で、広島の原爆投下や爆発の時刻として「8時15分」以外が書かれた文献などを紹介したところ「こんな小説もあるよ」と紹介してもらいました。1973年出版の角川文庫で、エドウィン・ランハム著「ヒロシマ八時十六分」です。

休暇で広島を訪れた米兵エリと、被爆した日本人女性クミコの恋愛小説。「ユカタ」など日本独特の風俗が詳しく、米国人の視点から書かれています。上下巻2冊でもう絶版ですが、広島市では市立図書館で借りることができるそうです。

原爆の爆発時間については米国人ジャーナリストらの著書にあった、15分17秒に投下され、43秒後に爆発した説に従って上巻に書いています。予想以上に米国人の加害意識に触れ、被爆者の心情も盛り込まれた小説でした。


(中国新聞・森岡恭子)