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8.6探検隊

(56)どこまでが平和記念公園?

Q

平和記念公園(広島市中区)は、どの範囲をいうのですか。




A

三角地帯にドーム追加

本川と元安川、平和大通りに挟まれた三角地帯だと漠然と思っていたけれど、本当はどうなんだろう。公園を管轄する広島市緑政課の永田一司主査(46)によると、最初に言った三角地帯と原爆ドーム周辺を合わせた部分が平和記念公園なんだそうだ。でも、境界線がどこにあるのかはちょっと難しいね。

■大通り計画が先

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永田主査によると南側の境界は噴水池の南端。ということは「嵐の中の母子像」や「マルセル・ジュノー博士記念碑」がある平和大通り沿いの緑地帯は公園の外になる。西側は本川、東側は元安川のそれぞれ護岸。北側は相生橋の手前となっている。本川と元安川の護岸とは石垣のこと。だから川沿いの道路や河川敷も公園の中なんだ。

では、この区域はどうやって決められたのだろう。

公園区域の設定には、百メートル道路(平和大通り)をつくる計画が公園づくりより先に進んでいたことと、世界最初の被爆地として、記念的な公園をつくろうとしたという二つの事情が関係していた。

広島市の復興計画は原子爆弾が投下された直後から動きだし、被爆翌年の1946年10月には幹線道路、11月には市全体の公園の計画が告示された。道路では平和記念公園の南側を走る百メートル道路などが計画された。公園では10ヘクタール以上の大公園として、中央公園(広島市中区)、東公園(同東区)とともに現在の平和記念公園の三角地帯部分にあたる中島公園が盛り込まれた。東公園は結局建設されず、61年に廃止となった。

「広島新史 都市文化編」によると、45年末には百メートル道路の計画図が確定したとみられている。同書は「百米道路を計画したら三角形の地帯が残ったので、(これを)原爆を記念する公園(にしよう)として出発した」という県都市計画課関係者のコメントを紹介している。

ところで、原爆ドーム周辺は中島公園の区域に入ってなかったんだ。46年11月の復興計画告示の時、原爆ドーム周辺は、中央公園の区域となっていた。

■当初は中央公園

この復興計画をもとに、52年3月31日付で策定された広島平和記念都市建設計画で、平和記念公園の文字が初めて市の公文書に登場した。この計画で原爆ドーム周辺は平和記念公園の一部となった。この時点で、なぜ入ったのか。その理由について、広島の復興の歴史に詳しい広島国際大の石丸紀興教授(68)=都市計画史=は「中央公園よりも中島公園との関係性が強かったからだろう」と説明する。

それを裏付けるように、平和記念公園を設計した故丹下健三氏が49年に出した設計案では原爆ドームと塔、陳列館(現在の原爆資料館本館)を一直線上に配置しており、原爆ドームを公園の一部として考えていたことが分かる。また、51年8月にまとまった旧建設省広島平和記念都市建設専門委員会の意見書には、原爆ドームを「残存する唯一の原爆遺跡と捉える」と明記されている。

爆心地の島外科(当時は島病院)は区域内に入っていない。「当時は爆心地がはっきりと確定していなかったからだろう」というのが石丸教授の見方だ。

平和記念公園の面積は12・21ヘクタール。一方、市内で最も広い公園は中央公園で約41・57ヘクタール。実は原爆ドームと向かい合って建つ旧広島市民球場は、その中央公園の中にある。公園の区域というのは市民が思いつかないような設定をしているんだね。(村島健輔)