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8.6探検隊

(62)「平和の灯」は原爆の炎の残り?

Q

平和記念公園にある「平和の灯(ともしび)」にはどんな意味があるのですか。




A

宗教・産業界 新たに点火

原爆慰霊碑の正面に立つと、奥に見える火だよね。管理している広島市緑化推進部によると、火がともされたのは1964年8月1日。「核兵器が地上から姿を消す日まで燃やし続けよう」と地元の政財界や宗教界、被爆者団体などで建設委員会をつくり、全国から建設資金を集めたんだ。当時の中国新聞は、全国から3500万円が集まった、と紹介している。

■丹下健三氏設計

設計は、原爆慰霊碑と同じ丹下健三氏。広島平和文化センターの「ヒロシマ読本」には「台座は、両手を広げた形を抽象化したもの」と説明。位置も、ちょうど慰霊碑と原爆ドームの中間に炎が燃え上がるように工夫された。

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で、肝心の火だけど「宗教の火」と「産業の火」を合わせて作られたものなんだそうだ。伊勢神宮や東西両本願寺、カトリックなど計16の宗教団体から寄せられた宗教の火。そして産業の火は、全国の工業地帯から届けられた。

この火は、市役所に許可申請すれば分けてもらえる。平和反核リレーやとんど祭り、フラワーフェスティバルなど、2008年度には24のイベントに使われた。本年度も国内外から既に19件の申請がある。ほかにも、カナダやイギリス、沖縄県糸満市など計14カ所に分火されて、平和を訴え続けているんだよ。

というわけで、平和の灯は原爆で燃え残った火ではない。でも実は、広島から350キロも離れた福岡県星野村に、原爆で燃え残った火がある。

火を星野村に運んだのは、村出身で04年に88歳で亡くなった山本達雄さん。あの日、駐屯していた広島県大乗村(現竹原市)から広島市の宇品に、軍の任務で向かう途中に被爆。その後、負傷した人の救援や死んだ人の火葬をしながら、広島市中心部、本通商店街の書店「金正堂」を経営していた叔父の弥助さんの行方を捜した。終戦後の9月16日、村に戻る前にどうしても見つからなかった叔父の遺骨代わりに、と店の地下豪に残っていた火をカイロに移して持ち帰った。

■国内14ヵ所分火

この火を山本さんは、戦後ずっと自宅の仏壇や火鉢、かまどにともして守ってきたんだよ。

山本さんの次男で、星野村に住む陶芸家の山本拓道さん(59)は、「父にとってこの火は、『平和の火』というだけではない。自身も被爆し、親のように慕っていた叔父、いとこ、そして広島で亡くなった多くの人たちの『恨みの火』でもあり『供養の火』でもある」と説明する。そして「複雑な思いを持ち、苦悩の日々を過ごしていたようです」と父親の思い出を語ってくれた。

火は1968年8月6日、村が引き継いだ。村内に建設した平和の塔で、ともし続け、村では毎年8月6日に平和祈念式典を開いている。

星野村によると、こちらも愛知県や東京都など国内14カ所に分火されている。年間10〜15件採火されて、平和コンサートなどのイベントも開催。この火をテーマにした本や合唱曲も作られ、さらには米国で「GATE」というドキュメンタリー映画にもなっているんだよ。(二井理江)